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個人と組織の間を揺れ動くサツカンの素顔に肉薄……横山秀夫『深追い』

Posted by Ikkey52 on 01.2019 文芸批評   0 comments   0 trackback
「昔付き合った女の夫が死んだ。出身地の県警に勤めていれば誰もが似たような経験をする。交通違反で呼び止めた相手が昔の遊び仲間だったり、捕えた泥棒の父親が恩師だったり、首吊り死体を下ろしてみたら同僚の従兄妹だったり」。

 こう心の中でつぶやく秋葉健治は、三ッ鐘署の交通課事故係主任で、署に隣接した独身寮に住む32才。職住接近が過ぎて、同僚はみなプライバシーの無さに悩む。
 ある日の夕方、自転車で帰宅途中の会社員が大型トラックにはねられた事故に臨場し、死亡した会社員の手帳に挟まれた家族写真を検めたところ、妻とおぼしき女に見覚えがあった。小中学校時代の同級生で、別の高校に進んだが、いっとき心を通わせた旧姓綾瀬明子に違いない。

 事故現場で拾い、遺族に返しそびれていたカード型のポケベルを届けにきたことにして、死んだ会社員の通夜に出た秋葉は、ワケアリらしい明子と亡夫の関係に気づく。明子が故意に夫を死なせたのではないか、との疑いを深め、刑事でもないのに明子の過去を調べ回るあたりから、秋葉の職業人としての分別は麻痺し、結婚適齢期を迎えて焦りを感じ始めている、ごくありふれた青年の切ない感情に呑み込まれて行く…。

 上記は短編集の表題となっている『深追い』のサワリだが、99パーセント、悲劇で終わりそうな話に、見事というほかない救いの結末が意表を突く形で用意されている。短編は読者にあれこれ想像させて終わればよく、尻切れで一向構わない、という小説論がある。その通りだと思うが、横山秀夫のこの短編集に収録された7作は、余韻が長く残り、尻切れ感が薄い。上質の人間ドラマに仕上がっているということだ。

 横山秀夫作品のテレビドラマ化、映画化は、かならずチェックしているつもりだが、合格点をやれそうなものがあまりない。松本清張ドラマに外れが少ないのとは対照的だ。やはり、最大の魅力になっている内面描写を、ドラマに落とし込むことはかなり難しいのだろうか。

 それにしても三ッ鐘署シリーズ恐るべし。あなたの街の、顔見知りのおまわりさんと、彼らを煩わせる普通の人々が、ぞっとするほどリアルな顔で出てきます。この魅力に尽きるな、横山作品は。

義兄が彼女の人生を邪魔した……石井妙子『原節子の真実』

Posted by Ikkey52 on 01.2019 文芸批評   0 comments   0 trackback
 原節子が伝説の女優と呼ばれる理由は、その鮮やかすぎる引退にある。それまで煌々と輝いていた光源が、突然ブラックアウトしたようなものだ。すでに母役が回ってくる年齢ではあったが、映画会社や監督にとって、節子は相変わらずスターに違いなかった。明確な引退宣言はしていない。結果として1963年の東宝時代劇が最後の出演となった。一番驚いたのはファンだ。引退後は所在さえ明かさず、ぷっつり公の席にも出なくなった。

 家業の没落で学業を続けられなくなり、14才で働きに出たのが映画の世界だった。昭和初期、すでに国民的人気を集めていた俳優は何人もいたが、一方で女優はある種の賤業と受け止められていた。節子自身もそう感じており、同僚や業界関係者とけして群れず、撮影の合間にはひたすら本ばかり読んでいた。映画会社の看板ではあったので、マスメディアに問われるまま、角の立たない答で済ましたことは数知れないが、心の奥で女優という商売を最後まで嫌がっていた。

 結婚したことはない。固い信条に基づくものではなく結果的にだ。映画界に入ってしばらくは、自分が稼がなければ大家族が干上がってしまうという義務感に縛られていた。やがて、結婚を夢見る相手が現れるが、適齢期に戦争が挟まっていてタイミングが合わなかった。相手は別の女性と平凡な家庭を築き、節子は残された。1920年生まれの女性にとっては、ありふれた不幸だったのかもしれない。作者の石井妙子はよくそのあたりを取材しており、やはり独身を通した小津安二郎監督と恋愛関係を一蹴している。

 戦争といえば、節子は戦前、日独友好のシンボルとして両国合作映画の主演に選ばれ、ドイツ政府の招きで現地入りし、親善ムード醸成の人寄せパンダ役を担わされている。これまた節子にとっては痛みを伴う仕事だった。日本が敗戦し、国内社会の価値観が一変すると、ナチス・ドイツのお抱え女優だった経験は、明らかなマイナスイメージになり、節子のその後の女優人生に暗い影を落とした。

節子のドイツ行きに保護者として同行したのが、節子の義兄(姉の夫)で映画監督の熊谷久虎だ。この熊谷こそ節子を映画界に引き入れ、実家を出たあとの節子を弟子として自宅に引き取り、陰のマネージャー、プロデューサーとして、ずっと節子の人生の選択に大きな影響を与え続けた張本人だった。石井作品の白眉は、熊谷という人物の再発見であり、熊谷の独断に満ちた意見に、周囲に流されることのない節子がどうしていつも従順だったのか、その謎から終始目を逸らさなかったところだろう。
 
 お断りするのを忘れたが、当方、必ずしも原節子の良き観客のひとりではない。確かに人並外れた美貌の持ち主だが、代表的な小津作品においても、バタ臭い雰囲気は畳の部屋に似つかわしくないと感じる。黒澤のほうが、節子という素材をうまく料理している。
 この作品は期せずして、石井版日本映画史にもなっている。学ぶところが多々あった。「戦後が終わったとき、原節子の時代も終わった」という締めにしみじみ納得。。

遠藤誉「毛沢東」……人類史上最大の殺人者は「正直」だった

Posted by Ikkey52 on 01.2019 文芸批評   0 comments   0 trackback
過去を振り返ってみると、わが日本人も自国史の恣意的な解釈を何度も許してきた。ほとんどマンガの皇国史観をありがたく戴いていた戦中の恥ずかしい国民体験もある。一方、昭和20年の敗戦以降GHQに押し付けられてきたいわゆる戦後史観の厚化粧が剥がれ、歴史の再構築がはじまったのもそう古いことではない。

 だからといって、歴史的真実はひとつしかないのだから、近隣諸国のあきれた史実歪曲を黙ってみているのは辛い。例えば、大日本帝国と合邦していた南北朝鮮があたかも抗日戦争で勝利し独立を勝ち取ったかのような言説であり、日中戦争で日本が敗北を認めた相手が、共産党独裁下の中華人民共和国だったといった言説だ。各建国記念日を見れば、それらの言説の欺瞞は子供でも分かるのに、なんとも残念だ。

 事象の呼び名ひとつをとっても誤解のタネになりがちだ。「日中戦争」と呼ぶから、日本対中国という単純な構図に見えてしまう。そうではなく、日本の中国侵略の背後には、それ以上に長い中国内戦が隠れており、したがってステージの上には、日本軍(汪兆銘政権)、蒋介石国民党軍、そして毛沢東共産党軍の三者がいた、というのが本書の見立てだ。

 しかも三つ巴の闘いの最中にあった当時の中国共産党は基本的にコミンテルンの傀儡そのものであり、非エリート党員の毛沢東がのし上がるのにはモスクワの影響力も削ぐ必要があった。毛にとっては四つ巴だ。党内闘争を勝ち抜き、最終的に内戦の勝者となるためには、権謀術数の限りを尽くすしか、手がなかったのだが、天才的策略家の彼はそれをやってのける。

 結論からいえば、日中戦争終結まで、毛に率いられた中国共産党は自軍を日本軍との戦いに注ぎ込んでいるように大宣伝しながら、実はアリバイ的にしか関わらず、体力を温存した。国民党内に多数のスパイを放ち、掴んだ情報は日本側に売り渡し、国民党の疲弊を助けた。ついには、日本側に極秘停戦提案さえ持ち掛けている。しかも、画策通り内戦の勝者になると、かつて穢れ仕事をさせた部下をことごとく粛清した。史実の語り部たちの抹殺で、以降、毛の後継者たちは歴史を自由に脚色できるようになった。

 著者の遠藤誉は、旧満州からの引き揚げ経験を持つ女性物理学者。中国語は現地仕込みで、本職は科学者だから一次資料に徹底してこだわる。兵士の立ち振る舞いを通して、国民党軍と八路軍(中共軍)の違いまで知る人だから、歴史の虚偽を見破る分析は深く緻密だ。感情に全く流されていない。

 遠藤によれば、毛が殺した中国人民は少なく見積もっても7000万人。しかもこれは、新中国になってからだけの数字だ。当然、「人類史上最大の殺人者」、「極悪人」と断ずる書物も出るわけだが、遠藤は「それを悪と見るか否かは、書き手側の主観の問題だ」とする。戦後、訪ねて行った日本人に盛んに日本軍への感謝を口にした毛沢東。遠藤はそれを皮肉でなく、正直な吐露と捉える。しかし、不都合な歴史を隠蔽するための神話づくりに中国執行部が今もなお邁進している姿は罪作りだ、ときっぱりと断罪している。

 中国本土で武装解除された日本軍の将兵に、報復心でなく東洋的徳を持って報いた蒋介石の人間力は語り草だが、帝王学と権謀術数があって、人民愛、同朋意識に欠けていた毛沢東が新しい中国皇帝となり、死後も貶められない秘密が語られている。論旨あくまで明快で、目が覚める一冊

森功「地面師」……「捜二」泣かせの知能犯

Posted by Ikkey52 on 01.2019 書評・事件   0 comments   0 trackback
 大手デベロッパーの積水ハウスが、東京・五反田にある休業旅館「海喜館」を舞台にした土地取引詐欺にひっかかり、55億円もの被害に遭った事件。警視庁が一斉摘発に動き、容疑者らが芋づる式に捕まるなかで、ひとりフィリピンに高跳びした「カミンスカス操」なる妙な名前の男が印象に残る。

 現地の豚箱のなかの「カミンスカス操」の映像が報道されたが、観念しているようすが微塵もなく、かえってふてぶてしい。犯罪常習者の臭いはプンプンだが、ひょっとしたらこの男、日本で裁判に掛けられても、最終的には無罪になると高をくくっているのだろうか……、そんな気さえした。

 日本の警察で知能犯を扱う捜査二課系でも、地面師の摘発は特に難関といわれる。いうまでもなく、警察にとって民事不介入は大原則だが、地面師の暗躍の場は民間の土地取引だからだ。価値の高い物件になれば、それをより安く買いたいとの心理が働き、逆に売り手はより高く売ろうとする。

 野菜や魚を店先で販売するわけではない。庶民の個人資産をはるかに超えた金額がやり取りされる。したがって、土地売買の現場では、犯罪すれすれのあらゆる権謀術数が渦巻く。最終的には所有権移転登記という法律行為で終わるのだから、そこには弁護士や司法書士の介在は当然として、彼らが厳正な法の番人とは限らない。売り手買い手の意を呈して有象無象の仲介者やブローカーも刺さり込む。

 となれば、書類を偽造したとか、地主に成りすましたとか、策を弄して人を騙したことが明々白々な役目を除けば、だれが真の加害者で、誰が無辜の被害者か、弁別するのは相当に骨が折れる。凶器の包丁を眼前に見せ、お前がやっただろ、白状しろ、といった粗暴犯の取り調べのようにはいかない。

 まして地面師の大物ともなれば、綿密な犯行計画を立案し、自分はほとんど表に出ないことも可能だ。犯行計画の全容など知るすべもない生活困窮者、認知症気味の老人らが、ハシタ金に釣られて犯行グループの末端として利用される。

「カミンスカス操」こと小山操は、積水ハウス事件の主役の一人らしい。先にも述べたが、実際の犯行現場(契約を交わす銀行会議室や法律事務所の個室)と直接の関りが薄ければ薄いほど、容疑を固めるのは難しい。小山は2000年代半ばまでマンションデベロッパーとして名を馳せた某企業の財務部長出身という。やはり、最終無罪を確信しているはずだ。

 著者の森功は犯罪ノンフィクションを書かせたら今の日本では第一人者。込み入った犯行を分かりやすく解き明かしているうえ、被害者なのか加害者なのか、取材する側もよく見極められない、そんな人物にもしっかりアプローチしている。

先崎彰容『バッシング論』……タイトルと中味の落差に異議あり!

Posted by Ikkey52 on 01.2019 文芸批評   0 comments   0 trackback
 昨今テレビニュースで、企業幹部や役所の責任者らが、居並ぶ報道陣を前に深々と頭を下げ、謝罪している図に出くわさない日はない。カメラの見つめる先には、お白洲がわりの簡易机がならび、そこに雁首を揃えた面々がとつとつと、ときには滔々と、反省の弁を連ねる。

 企業や役所の謝罪と反省は、バッシングの気配を受けて行われる。危機管理の一環だ。大叩きされる懸念もないのに、坊主懺悔する馬鹿はいない。やがて質疑応答の時間になり、記者の質問が飛ぶのだが、中身は質問というより糾弾だ。おいおい、いつからマスコミは検察官になった?。……こんな日本に誰がした。

 ところで、バッシングとはいったい何だろう。どんなメカニズムで発生するのか。そんな疑問を抱いているところに、先崎彰容の『バッシング論』と出会った。タイトルに魅かれて飛びついたが、率直にいえば、想像していた中味と余りにも違い過ぎた。

 明治以来の代表的知識人の発言を通して、先崎が考察の対象にしているのは、不寛容な現代日本の空気であって、バッシングという事象の解明でもなんでもない。共同体としての価値基準の喪失が問題だと、先崎は考えた。それを先崎はオリジナルな言葉として「辞書的基底が失われた状態」と呼ぶのだが、ある事象を別の言い方に呼び換えたところで何だというのだ。

 語られる範囲はめっぽう広い。財務官僚トップのテレ朝女性記者へのセクハラに始まって、国立大学法人の組織見直し、三島由紀夫と橋川文三の間で交わされた日本浪漫派論争、西郷隆盛論、生前退位の呼び水となった平成天皇の「おことば」、『新潮45』廃刊騒動、フクシマとオキナワなど。

 結局、今の日本社会をぎくしゃくさせている戦犯は、「美しさ」と「マジメさ」への過信だと、先崎は述べる。坂口安吾を引いて、人間の弱さを自覚することだというのだが、政治的左右、思想的左右、もっと直截に言えば進歩主義と保守主義の二項対立を持ち出してきて、どちらもだめだ、といった記述の仕方にはどうにもついて行けなかった。この手の文章は、相対主義と呼ばれ蔑まれるのが、自分の知る限り通り相場だ。

 「共産主義とトロツキスト」が対立する概念だという、かなり乱暴な表現もある。共産主義はイデオロギーの呼び名であり、トロツキストはトロツキーの革命路線を支持する人々の呼称だ。先崎がいう「トロツキスト」が「トロツキズム」の誤植であったとしても、そもそもトロツキズムは共産主義の考え方のひとつではないか。ひょっとして先生、まさかとは思うが、学生時代は民青活動家で鳴らしたとか?。そうであれば納得がいく。

 ふた昔も前の大学の先生のように、偉ぶった文体も好きになれなかった。「筆者自身、三十代で『若手知識人』として論壇に出させてもらった」のだそうだ。こちとら極め付きの浅学菲才の身、そうとは知らず、お見逸れしました、と言うしかあるまい。

 ご本人は哲学者を認じており、それはそれで結構だが、現代日本の「バッシング」を語るにあたって、例えば女子高生のスマホの中身を問題にするような通俗的視点が求められるのではないか。
  

プロフィール

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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