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二隻の砕氷船 (下)

Posted by Ikkey52 on 01.2017 現代史   0 comments   0 trackback
 「宗谷」が改修を施され、南氷洋を行けるほどの本格的砕氷能力を獲得するのはもちろん戦後のことだ。官・民を通して戦前戦中の日本に国産の砕氷船は一隻しかなかった。それが海軍の砕氷艦「大泊」だ。大正10年(1921)11月に神戸の川崎造船所で竣工した。その名は、樺太の日本領有時代、樺太庁が置かれた都市、大泊(現コルサコフ)に由来する。ただし「大泊」は、当初から氷の海の航行を目的に建造が計画された船ではない。給油艦計画が急遽変更されたのだ。

 写真で見る限り、艦橋の幅が広いので重心がずいぶん高ように感じる。船尾のスクリューは両舷に一つずつあるが、軍艦の精悍さとは無縁だ。艦首部には氷を砕く鉄の歯のようなものが取り付けられていた。就役後、砕氷艦としての真価が問われる場面はすぐおとずれた。翌11年1月、山下汽船から海軍に輸送船として傭入されていた「中華丸」が、樺太中部西海岸の日ソ国境線に近いビレオ岬沖で氷に閉ざされ航行不能に陥ったのだ。救出命令を受け急行した「大泊」は、小柄な船体を「中華丸」の左舷にいったん横付けして周囲の氷を割り、「中華丸」を曳航する形で海氷原から脱出させた。 
 
 「大泊」の通常の行動海域は地味に終始北洋に限られ、海上警備、航路の障害物除去、漁場保全などにあたった。戦時中は、宗谷海峡や樺太東岸の亜庭湾を中心に不審船に目を光らせた。派手な武勇伝こそないものの、昭和20年の終戦まで、敵襲による沈没や大破を免れて任務に精励した。その意味では確かに、無事これ名馬を地で行くような海軍有数の功労艦ではあったが、如何せん旧式だったため、深刻な船舶不足に悩む新生日本にあっても新しい役割は結局見つからなかった。

 当初給油艦として計画された「大泊」がなぜ砕氷艦に切り替わったのか。背景には、国民的な批判の的になるという海軍史上まれな屈辱が横たわっていた。尼港事件の責任論だ。 尼港事件とは大正9年(1920)の春、アムール川河口の街ニコラエフスク・ナ・アムーレになだれ込んできた赤色パルチザンによる住民大虐殺のことだ。広大なロシアの東のはずれに位置するニコラエフスクだが、鮭鱒をはじめとした漁業資源、森林資源、砂金などの鉱物資源といった大河アムールの豊かな恵みを集積し、搬出するのに適していた。極東ロシアの港として最初に開かれたのはそのためで、ロシア人はもとよりユダヤ人、日本人、中国人、コリアンらが混住し、小さな国際コミュニティを形成していた。

 尼港事件の詳細はすでに以前に述べたので繰り返さないが、、日本海軍がこの事件で屈辱にまみれたのは、港が氷結して軍艦が近づけず、結果として日本領事一家を含む在留邦人の保護も日本軍守備隊への増援も一切できなかったことによる。当時の新聞報道にあたると、日本国民が示した悲憤慷慨の凄まじさが伝わってくる。
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