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二隻の砕氷船 (上)

Posted by Ikkey52 on 29.2017 現代史   0 comments   0 trackback
 平和な時代の砕氷船といえば、南極越冬隊員を乗せて日本と昭和基地を何度となく往復した海上保安庁の南極観測船「宗谷」の名が真っ先に浮かぶ。遠く南氷洋の果ての白い大陸に、科学研究の橋頭堡を築こうと悪戦苦闘する「宗谷」の姿に、大人たちは破滅的敗戦の痛手から立ち上がろうとする祖国の歩みを重ねた。少年少女たちにとっては、南極から新しい夢を次々に運んでくる宝船のように見えた。樺太犬タロ、ジロの奇跡の生存を描き、記録的ヒットとなった映画「南極物語」では、名脇役も演じた「宗谷」だが、その船歴の波乱万丈は案外知られていない。 

 昭和11年(1936)、ソビエト連邦通商代表部から日本に耐氷型貨物船三隻の発注があった。長崎の川南工業香焼島(こうやぎしま)造船所で竣工した三隻のうち一隻が、のちに「宗谷」となるのだが、進水セレモニーの一環で行われる命名式で、船名はロシア語の「ボロチャエベツ」と発表された。ボロチャエベツとは、「ボロチャエフの戦友」という意味で、シベリア内戦期の最終盤、ハバロフスクの白軍残党が極東共和国軍に最後の戦いを挑んだ戦場の名でもある。母港もカムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに決まっていた。純然たるソ連船として就役が見込まれていたわけだ。

 ところが、満洲国が成立して以来、日本の関東軍が事実上、同国の防衛部隊の中核としてソ満国境まで進出した結果、日ソ関係は一気にぎくしゃくしはじめていた。貨物船の建造が始まり、三隻が相次いで竣工する時期は、両国の軋轢が大規模な軍事衝突となって沸点を迎えるノモンハン事件の前夜と重なっていた。したがって、三隻のソ連への引き渡しには、風雲急を告げる二国間関係がもろに影響して、いっこうに道がつかなかった。

 軍部は部外者ではあったが、当然成り行きを注視していた。三隻には耐氷輸送能力のほかに、イギリス製の最新ソナーが備わっていて、測量も可能だ。ただ、ソ連発注の船舶をまるで横取りするように日本海軍が買収し、管轄下に収めるのは、時節柄、さすがに刺激が強すぎる。こうした理由が重なり、貨物船「ボロチャエベツ」は、結局、商船「地領丸」として登録され、民間チャーター航路に就役する。傭船契約の終了を待って、日本海軍が「地領丸」を買い取り、艤装し直したうえ、雑用運送を任務とする特務艦「宗谷」と命名するのは、昭和15年(1940)のことだ。以来、「宗谷」は北樺太から、サイパン、ラバウル、ミッドウェー、ソロモン等の激戦を潜り抜け、不沈を通して訓練中の室蘭港で終戦を迎える。

 ちなみに、「宗谷」建造を受注した川南工業の名に引っかかりを覚えた読者は、現代史の達人だろう。軍艦造船の需要がなくなった川南工業は戦後あえなく倒産したが、1961年に発覚したクーデター未遂、いわゆる三無事件の首謀者として、代表取締役だった川南豊作が逮捕され世間を驚かせた。旧軍人、右翼活動家らを糾合して、国会議事堂占拠、要人暗殺を企てたとされる事件は、一審で破壊活動防止法(政治目的殺人陰謀罪)が初適用されたこともあって、今もなお公安事件史に名を留めている。
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