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ブレッソン映画のドレッシング、ドストエフスキーのスパイス…中村文則『掏摸』

Posted by Ikkey52 on 28.2017 文芸批評   0 comments   0 trackback
 戦後フランス映画の名匠ロベール・ブレッソンは、過剰な演技が大嫌いで、生涯プロの役者を使わず、全作品を素人俳優だけで通した。演技指導は専ら視線の動き中心だったといわれる。彼の代表作に「スリ」(1959年)がある。ドストエフスキーの『罪と罰』を、パリのスリを主人公に翻案したもので、親指を使わない財布の抜き方が妙に生々しかった。

 中村文則の『掏摸(すり)』を読んで連想したのはブレッソンだった。『掏摸』の主人公も親指を封印する手口に固執する。視線の描写が頻繁に出てくるところも類似性を感じたが、旧約聖書が出てきたところで、はたと気づいた。ドストエフスキーのスパイスも隠し味なっていると。

 都内をシノギの場とする天才的スリ師の「僕」は、ヤクザ未満の一匹狼を貫きたいプロの犯罪者。空き巣グループに入ったり、薬の売人をやったりもしたが、気ままなスリ稼業が性に合っている。腕は確かで、金には不自由していないが、スリはやめない。住処にしている汚い安アパートから、それが自己目的であるかのように、毎日のようにタクシーで繁華街目指しシノギに出かける。何のためにスリを働いているのか、自分に問うこともない。ただし、悪である自覚は持っている。

 小説は、「僕」の心のうちを直接覗かせてはくれないが、ワルの仲間が「僕」の心境を代弁する。「自分が人混みに消えて通り抜ける時、特殊な感じがある。…法を超える瞬間、ヤクザの女とか、やったらやばい女と寝る瞬間とかさ。…一番スリが興奮するけど」。

 「僕」は近所のスーパーで、食料品を万引きしにきた売春婦母子を見かける。母親が半ズボンの子供に指示してやらせているが、店の警備員がマークしているのに気づかない。「僕」は自然に母親に近づき、耳元で「ばれている」とささやき、窮地を救う。以来、子供に勝手になつかれて、万引き、スリの極意の一部を教える。虐待まがいの家の事情を知り、押しかけてきた母親の客にさえなるが、それはかつて不倫関係を持ちながら原因不明の自殺を遂げた女とその子のための、代償行為にすぎない。

 「僕」やそのワルい友人さえ、「最悪」と思う木崎に「僕」は目をつけられ、ある強盗グループにいやおうなく引き入れられ、死線を超えて一人だけ残る。木崎は思いがけないインテリで、神を語り、ヤーヴェを語るが、木崎の言わんとするところは、自分は他人の運命を決定づける全能の神であり、「僕」はその決定通りに生きて死ぬ存在に過ぎず、それ以上でもなく、それ以下でもない、ということだった…。

 芥川賞作家の文章はさすがに贅肉がない。しかし、年端も行かない少年に、世界スリ歴伝をとうとうと説いたり、若年性痴呆症と万引きの関係を語ったり、室内でもサングラスの風体からして、せいぜいヤクザの成り上がり程度に過ぎない最悪の木崎が、フランスに実際にあった農奴制を下敷きに作り話を聞かせるなど、ピュアな犯罪小説として読むにはリアリティを欠いた部分がある。それでも、「僕」にとって子供のころのトラウマの象徴であり、いまや全能神のシンボルとして幻視される「高い塔」など、おそらく純文学以外では表現しにくいイメージが効果を上げている。ドライブ感は抜群で、これが現代日本の純文学だとすれば、その前途はむしろ洋々ではないか。中村文則、恐るべしだと思う。

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