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問われる「表現者の党派性」…保坂正康 『農村青年社事件~昭和アナキストの見た幻』

Posted by Ikkey52 on 07.2015 評論   0 comments   0 trackback
 昭和史の分野でいまや大御所ライターとなってしまった保坂正康が、自分自身の青年期に取材半ばでいったんは投げ出したテーマを再度拾い直し、現代の視点から再検討を試みた『農村青年社事件~昭和アナキストの見た幻』を読了。昭和初期から10年代にかけての出来事を、治安維持法違反に問われた集団裁判資料、その新聞報道などで辿る。

 事件は昭和6年、東京都下・目白文化村の一軒家でアナキズム思想を抱く男3人、女1人が出会うことから始まる。時節柄、4人は困窮を極める農村部への深刻な問題意識を共有した。当時のアナキズム潮流のメイン・ストリームは、アナルコ・サンジカリズム、つまり都市労働者のストライキ・生産点自主管理を手段として大日本帝国と渡り合う戦略だったが、4人はこれと一線を画し、自給自足、相互扶助の理念を基本として、社会変革を構想する「農村青年社(農青社)」を結ぶ。とはいえ、農青社の実態はせいぜい、「政治結社未満、文化サークル以上」に過ぎなかった。ところが、思いつめたメンバーの一部が活動資金のためにリャク(盗み)をやるほどのリアリズムを持ち合わせていたために、刑事警察に検挙され、事実上農青社は結社の体裁が整う前に、解散の憂き目に遭う。日本アナキズム運動史では、リャクは日本無政府共産党の代名詞であるのだが、保坂は、この党との農青社との人的つながりは記述しても、戦術の共通性について、何ら掘り下げていない。

 主要メンバーの「単純な刑事犯」としての下獄によって農青社が事実上解散状態になってから数年後、「戦争」の名のつかない「戦争」が中国大陸で広がりつつあった情況を背景に、ある地方思想検事が第二の大逆事件を捏造しようと画策する。具体的には、農青社の初期メンバーと、雑誌購読や意見交換、講演会出席を通して何らかのつながりを持った、主に長野県の農村青年らが、関係性の濃淡を問わず、一網打尽に治安維持法違反容疑で検挙された。思想検事のフレーム・アップは成功したとはいえないが、判事が思想検事に迎合せざるをえないという特異な司法秩序のなかにあって、起訴された青年たちは無辜の囚人となった。

 戦後とっくに市井の人となっていた「農村青年社」の主要メンバーを、保坂は昭和50年代に探しだし、再三インタビューを行いながら、結局は取材継続をあきらめた心境を何度も言い募り、それに絡めて当時の自分の私的環境を点描する。すでに死語だが、いわゆるニュージャーナリズムの形式を踏んでいる。ただし、取材対象者一人ひとりへの思い入れは表出させても、肝心の彼らの思想のひだには慎重に踏み込まない。表現者が一方で自身の私生活を語り口に差し挟みながら、他方で自らの青年期の「党派性」に口をつぐむのはいささか卑怯というもので、もし表現の基準がヒューマニズム、民主主義、立憲主義程度のものであれば、毒にも薬にもならない。歴史観を異にする文藝春秋社と朝日新聞社に、ともに重用されるという保坂の鵺(ぬえ)性が事件の解釈を、「志高い青年たちへの弾圧譚」に矮小化させているようにも思える。
 
 通読して深く印象に残るのは主要メンバーで紅一点の八木秋子だ。八木は服役後、昭和13年4月に出所、近衛文麿のブレーン集団である昭和研究会の主宰者、後藤隆之助邸に身を寄せている。後藤はヒトラーにもレーニンにもルーズベルトにも興味を抱く破天荒な政治運動家だった。八木は後藤邸に長居することなく満洲に旅立ったが、農村問題を若いころから研究したという後藤と「農村青年社」設立組のひとりである八木との間に、どんな会話があったのだろう。保坂は、八木に問いかけても、後藤邸に身を寄せたこと以外に何も語らなかったとしている。

 

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