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義兄が彼女の人生を邪魔した……石井妙子『原節子の真実』

Posted by Ikkey52 on 01.2019 文芸批評   0 comments   0 trackback
 原節子が伝説の女優と呼ばれる理由は、その鮮やかすぎる引退にある。それまで煌々と輝いていた光源が、突然ブラックアウトしたようなものだ。すでに母役が回ってくる年齢ではあったが、映画会社や監督にとって、節子は相変わらずスターに違いなかった。明確な引退宣言はしていない。結果として1963年の東宝時代劇が最後の出演となった。一番驚いたのはファンだ。引退後は所在さえ明かさず、ぷっつり公の席にも出なくなった。

 家業の没落で学業を続けられなくなり、14才で働きに出たのが映画の世界だった。昭和初期、すでに国民的人気を集めていた俳優は何人もいたが、一方で女優はある種の賤業と受け止められていた。節子自身もそう感じており、同僚や業界関係者とけして群れず、撮影の合間にはひたすら本ばかり読んでいた。映画会社の看板ではあったので、マスメディアに問われるまま、角の立たない答で済ましたことは数知れないが、心の奥で女優という商売を最後まで嫌がっていた。

 結婚したことはない。固い信条に基づくものではなく結果的にだ。映画界に入ってしばらくは、自分が稼がなければ大家族が干上がってしまうという義務感に縛られていた。やがて、結婚を夢見る相手が現れるが、適齢期に戦争が挟まっていてタイミングが合わなかった。相手は別の女性と平凡な家庭を築き、節子は残された。1920年生まれの女性にとっては、ありふれた不幸だったのかもしれない。作者の石井妙子はよくそのあたりを取材しており、やはり独身を通した小津安二郎監督と恋愛関係を一蹴している。

 戦争といえば、節子は戦前、日独友好のシンボルとして両国合作映画の主演に選ばれ、ドイツ政府の招きで現地入りし、親善ムード醸成の人寄せパンダ役を担わされている。これまた節子にとっては痛みを伴う仕事だった。日本が敗戦し、国内社会の価値観が一変すると、ナチス・ドイツのお抱え女優だった経験は、明らかなマイナスイメージになり、節子のその後の女優人生に暗い影を落とした。

節子のドイツ行きに保護者として同行したのが、節子の義兄(姉の夫)で映画監督の熊谷久虎だ。この熊谷こそ節子を映画界に引き入れ、実家を出たあとの節子を弟子として自宅に引き取り、陰のマネージャー、プロデューサーとして、ずっと節子の人生の選択に大きな影響を与え続けた張本人だった。石井作品の白眉は、熊谷という人物の再発見であり、熊谷の独断に満ちた意見に、周囲に流されることのない節子がどうしていつも従順だったのか、その謎から終始目を逸らさなかったところだろう。
 
 お断りするのを忘れたが、当方、必ずしも原節子の良き観客のひとりではない。確かに人並外れた美貌の持ち主だが、代表的な小津作品においても、バタ臭い雰囲気は畳の部屋に似つかわしくないと感じる。黒澤のほうが、節子という素材をうまく料理している。
 この作品は期せずして、石井版日本映画史にもなっている。学ぶところが多々あった。「戦後が終わったとき、原節子の時代も終わった」という締めにしみじみ納得。。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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