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「フルシチョフ秘密演説」全文流出の知られざる経緯

Posted by Ikkey52 on 26.2015 エスピオナージ   0 comments   0 trackback
 1956年2月のソ連共産党第20回大会における「フルシチョフ秘密報告」、いわゆるスターリン批判は、まさに現代史の一大事件だった。ところでこの「秘密報告」はいつ、どのような形で「秘密」でなくなり、世界中に流布されたのだろうか。これまでなんとなく見過ごしていた歴史の空白を、ある綿密な取材が見事に埋めてくれた。スパイ小説家としても知られる伝記作家のマイケル・バー・ゾウハーとイスラエル人テレビジャーナリストのミシム・ミシャルの共著『モサド・ファイル~イスラエル最強スパイ列伝』がそれだ。

 クレムリンの異変はただちに噂になり、西側にも伝わった。しかし、ソ連のメディアが全く報じなかったために、演説全文の入手は、とりわけ西側の情報機関にとってはきわめて大きなミッションになっていた。CIAは報奨金を100万ドル用意した。東側各国も動揺したため、まもなくフルシチョフは東欧共産党幹部に限って、全文の配布を認めた。

 ポーランドの国営ニュース通信社〈PAP〉でソ連東欧部の編集部長を務めていたジャーナリスト、ヴィクトル・グラエフスキにもスターリン演説全文が世界的スクープの的になっているのはよくわかっていた。ヴィクトルにはいわくつきの美しい恋人がいた。ポーランド共産党書記長オカブの秘書であり、ポーランド政府副首相を夫に持つルチアだ。といってもルチアの結婚生活はすでに破綻しており、ヴィクトルとルチアは周囲も公認する恋人同士だった。1956年4月上旬、いつものようにヴィクトルが党書記長室にルチアを訪ねると、彼女の机の上に最高機密のスタンプが押された赤い冊子が乗っていた。フルシチョフ演説全文だった。

 ヴィクトルはユダヤ系で、両親と妹はすでにイスラエル移住を果たしたが、筋金入りの共産党員だった彼は自らの意志でポーランド残留を選んだ。ところが、両親に会いに行ったイスラエルで、自由な民主国家の進歩的空気に触れる。停滞したポーランドとは対照的だった。帰国後、ヴィクトルはイスラエル移住を考え始めた。小冊子を見つけたとき、ヴィクトルに途方もない考えが浮かんだ。家でゆっくり読みたいから数時間貸してほしいという申し出をルチアはあっさり受け入れてくれた。冊子に目を通したヴィクトルはその内容に改めて衝撃を受け、ソビエト陣営の土台を揺さぶる爆破装置を自分が手にしていることに気づいた。足はイスラエル大使館に向いていた。警官や防諜機関員の目もあったはずだが、ジャーナリストだから堂々と入っていった。1時間ほどで大使館を出たヴィクトルは約束の時間より少し早くルチアに冊子を返すことが出来た。全文の内容はイスラエル政府中枢に届き、対米カードとしての重みに気づいた首相ベングリオンの判断でイスラエルの情報機関モサド経由でアメリカCIAに提供された。イスラエルのベングリオン政権は米アイゼンハワー政権に大きな貸しをつった形となり、見返りとしてモサドとCIAの関係は飛躍的に発展した。

 ヴィクトルは1957年にイスラエル移住を果たした。冊子の一時持ち出しはルチアのほか誰にも気づかれなかった。この男にはその後も幸運の女神が微笑み続ける。なんとKGBが工作員にならないか、とヴィクトルに接触してきたのだ。ヴィクトルから通報を受けたモサドは歓喜し、何食わぬ顔で誘いに乗るよう勧めた。こうして二重スパイが誕生した。1971年にスパイ稼業から足を洗うまで、ヴィクトルはKGB側から全く疑惑を抱かれなかったばかりか、高い評価を受けてレーニン勲章授与が決定された。一方、2007年になってヴィクトルは、KGBに長年ニセ情報を流し続けた功績を称えられイスラエル政府から名誉ある勲章を授けられているから、敵味方双方から叙勲した唯一の秘密諜報員となった。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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