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「赤衛軍事件」と疾風怒濤時代の終わり

Posted by Ikkey52 on 25.2014 ジャーナリズム   0 comments   0 trackback
 新聞記者としての振りだしが埼玉の支局だった、というOBと付き合いがある。初任地について語るとき、彼は声のトーンを一段低くする癖があるな、と気づいた。陸上自衛隊朝霞駐屯地の自衛官殺害事件に関連して、埼玉県警が朝日新聞出版局の記者だった川本三郎を証拠隠滅容疑で逮捕したのは1972年1月のこと。いまや映画や街歩きを語って大御所のライターとなっているあの川本三郎だ。逮捕と同時に川本は朝日新聞を馘首されている。OB氏は川本と面識はなかったが、同じ会社の同世代にめぐり合わせていた。支局配属記者の仕事の多くが地元警察と関わる取材であることを考えると、OB氏はひどい逆風のなかで、駆け出し時代を過ごしたことになる。

 朝霞の自衛官殺害事件は、元日大生菊井良治がライフル銃を奪う目的で幹部自衛官に成りすまし駐屯地内に侵入し、歩哨の自衛官をいきなり包丁で刺し殺し、「赤衛軍」とかかれたヘルメットとアジビラを犯行声明代わりに残して逃走したというもの。犯行前、菊井は「栃木で銃砲店強奪事件を起こした京浜安保共闘のメンバー」を騙って「週刊朝日」編集部に接触してきたが、それに応じたのがスクープ狙いに燃えていた若い川本だった。「朝日ジャーナル」編集部に異動していた川本は菊井のウソが露見したあとも一発抜け駆けの下心をもって菊井ともパイプを維持し、その結果、犯行直後の単独インタビューをものにする。そして、確かに菊井に会った証拠として警衛腕章とズボンをあずかるのだが、翻って見れば、それは捜査当局にとって、菊井の犯行を立証する唯一確実な手立てでもある。スクープを取りたいという一念に凝り固まっている若造にはその二義性がわからなかった。敵味方で争う戦場のただなかに迷い込んだジャーナリストに、もし何らかのお目こぼしがあるとすれば、どちらにも加担していないと証明できた場合のみだ。菊井が持ち続けていたくないものを預かることは、捜査陣からすれば「加担」そのものだった。

 最大の闘争目標であった70年安保の敗北によって、すでに全共闘運動、ベ平連運動は各地で後退局面に入っていた。反動で一部の先鋭化した反体制グループは爆弾闘争に手を染めるなど戦術をエスカレートさせたが、政治的な反体制に対する一般市民のシンパシーを急激に減衰させるという逆効果を生んだ。
 別名赤衛隊事件ともよばれる朝霞の殺人がメディアで報じられたとき、人々は連日様々に紙面をにぎわす過激な反体制グループによる公安事件とは、なにか決定的に異質な臭いを感じていた。川本が事件から十数年の時を経てまとめたエッセイで、4年前には映画化もされた『マイ・バック・ページ』によると、普通の「生活者」だった川本の兄(当時銀行員)が次のように語っている。

 「あの事件は、なんだかとてもいやな事件だ。信条の違いはあっても、安田講堂事件やベトナム反戦運動、三里塚の農民たちの空港建設反対は、いやな感じはしない。しかしあの事件はなんだかいやな感じがする」

 菊井が自分を信頼して犯行後のインタビューに応じてくれたことに義理立てして、川本はジャーナリストの鉄則である取材源の秘匿を最後まで貫こうとしたが、逮捕された菊井は相変わらず自分を大物に見せようとして虚実取り混ぜた供述を続ける。川本の「誠意」は菊井の作り話によって、かえってのっぴきならない状況を招く。菊井の詐話はまた、新左翼のスターだった京大助手の滝田修に一時、強盗殺人の共同正犯という濡れ衣を着せた。滝田は指名手配後も10年逃げ回ったが、逮捕されて強盗致死幇助で有罪とされている。これはもう滅茶苦茶な権力犯罪といっていい。滝田にも思い上がりはあったが、法の適用に恣意があっていいはずがない。
 赤衛軍事件と川本処分は、疾風怒涛の時代の最終盤、国家権力をなめ、図に乗って生きた人々の脇の甘さがもたらした凶事のひとつとして、今後も記憶されるだろう。

  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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