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靖国の磁場と死者の声

Posted by Ikkey52 on 18.2013 近現代史   0 comments   0 trackback
 仕事でかつてお世話になった写真家の杉山正己さんの写真展を観るため、遊就館に足を向けた。彼のライフワークともいうべき「玉砕の島アッツ」がテーマだ。杉山さん本人が玄関ロビーまで迎えに出てくれ、大いに恐縮する。遊就館は日本でただ一つの軍事博物館で、靖国神社の境内にあり、神社の付属施設になっている。梅雨どきの霧に煙る外苑参道は、鬱蒼と茂った木々に囲まれ、大都会の真ん中にいることをしばし忘れた。
 
 靖国の境内を歩くのは久々だった。最初はドキュメンタリーの撮影に行って、心惹かれた。古本漁りに神保町に出ると、それがルーチンワークであるかのように九段の坂を登った時期があったが、お気に入りの古本屋が次々に閉店して、あの界隈に行く機会が減ると、靖国も遠くなっていた。
 
 夏場になると、靖国神社は必ず全国ニュースのネタになる。閣僚の公式参拝が論じられ、A級戦犯合祀の是非が性懲りもなく蒸し返されるからだ。それとあわせて、反戦勢力を目の敵にする軍国かぶれの危ない連中が、靖国の参道を傍若無人に闊歩している類いのイメージが再生産される。
 しかし、普段着の靖国は拍子抜けするほど穏やかで平和な貌をしている。平日の外苑参道脇には毎週末に開かれる骨董市の看板がぽつんと残され、次の日曜日の出番を待っていた。「奉納花菖蒲展」の葭簀小屋では白人の中年カップルが盛んにカメラのシャッターを切っている。中国語を話す若い男女が大村益次郎の銅像をもの珍しそうに見上げながら通り過ぎていた…。靖国神社を、8月15日という一点でしか考えない視点からは、現実離れしたグロテスクな像が見えるだけだ。
 
 かくいう自分も、テレビや新聞が伝えるステレオタイプなイメージを、ある時期まで無批判に受け入れていた。神保町出身の杉山さんでさえ、神社から写真展を持ちかけられたとき、多少の戸惑いを覚えたそうだ。自分が蒙を啓かれたのは、実際に行ってみた体験に加えて、坪内祐三の労作『靖国』のお蔭が大きい。靖国神社は戊辰戦争の犠牲者らをまつることで、新国家の礎を確固たるものにしようと建立された明治生まれの新しい宗教施設で、山の手と下町の分水嶺に位置することから、競馬場があり、勧工場があり、相撲場やプロレス会場さえ併設した文明開化東京を象徴する一大アミューズメントパークとして構想された。明るい磁場を持った広場を狙ったのだ。
 
 かつての靖国は、旧陸海両軍が関与して運営され、日本軍国主義のシンボルだったのはまぎれもない事実だ。だから、戦後GHQは、焼き払ったうえ、廃止の方針だった。だが、ローマ教皇庁代表らが、「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があり、靖国神社の焼却は、連合国軍の占領政策と相容ない犯罪行為である」と反対し、辛くも存続した逸話が残る。A級戦犯のみならず、あの狂気の戦争に国民を駆り立て、また勝ち目のない戦術で部下たちを虫けらのように死なせた軍人たちも数知れずまつられているので、確かにつっこみどころは満載なのだが、一方で、戦没者遺族にとってかけがえのない精神的な寄り所なっているという重い現実に目はつぶれない。亡き肉親や戦友を偲んで靖国に集う人たちが、今も絶えないのには理由がある。
 
 おりから遊就館では「大東亜戦争七十年展Ⅱ」と銘打って、昭和17年のミッドウェー作戦から昭和18年後半までの戦没者の遺書や遺品が特別展示されていた。杉山さんの案内で、ガラスケースのなかに納められた遺影や遺書、遺品を見て回ると、さすがに胸にズシリと響くものがあった。戦没者たちは結局、戦前戦中にこの国を覆っていた偏狭なイデオロギーに殺された犠牲者ではないのか。
 
 死者(戦没者)の声を聞く場として、この時代、靖国神社の存在はかなり貴重だ。靖国神社の神官たちが皇国史観の持ち主であろうとなかろうと、どうでもいいのではないか。外国の政府が自国の世論誘導の手軽な手段として、靖国をダシにどんな対日カードを切ろうと、毅然としていればいいだけのことではないか。そんな思いを新たにした。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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