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麦酒とサムライ

Posted by Ikkey52 on 17.2013 近現代史   0 comments   0 trackback
 年がら年中、飲んでいるのに、「ビールのおいしい季節になった」などとつい時候の挨拶に使ってしまう調子の良さに我ながらあきれる。で、ビール事始めについて記したい。いまや国民飲料となっているビールの国内生産が、どうして中央から遠く離れた北海道札幌の地で始まったのか。
 明治22年9月25日、神戸市郊外で、木綿シャツ1枚に白木綿三尺帯1本という、ほとんど裸同然の行路病者(行き倒れ者)が収容された。最後に「鹿児島県士族、村橋久成」と名乗って息絶えた男に、輝くばかりの半生があったことはまもなく知れる。元薩摩藩派遣英国留学生15人のひとりで、ロンドン大学で学んだ。函館戦争には薩州隊軍監として従軍、早期停戦に向けて榎本軍への降伏交渉を根回しし、結果として榎本の命を救った。その後、開拓使書記官まで務めるが、開拓使長官黒田清隆らの官有物払下げ事件につながる不正を知って憤慨、辞表を叩きつけ、何処へともなく姿を消した。それから11年、誰も村橋の消息を知らなかった。
 開拓使の麦酒醸造所(サッポロビールの前身)は当初東京につくり、試験が成功したら北海道に移される計画だった。ドイツ公使の推薦を受けた日本人醸造技師とともに計画の実行を任された33歳の村橋は、札幌の豊富な木材、冷涼な気候、低温を維持するための氷雪などを理由に、この二段階論を覆し、はじめから札幌に建設するよう上申、これが認められた。村橋は醸造開始を見届けて東京に去るが、村橋がいなければ、札幌が日本のビールの故郷になることはなかった。
 突然の失踪によって、村橋の名は歴史から長く忘れ去られ、北海道開拓に功労のあった多くの薩摩人の列に連なることはなかった。村橋を再発見したのは、旧国鉄の車掌を務めつつ文芸創作活動を続けていた田中和夫の小説『残響』(1982年)だった。また、田中の地道な作業を一層広く知らしめ、サッポロビールという企業体に日本のビールの父として村橋久成をしっかり認知させたのは、このブログの第一回で取り上げたサッポロファクトリー・マガジン編集長西村秀樹の功績といっていい。サッポロファクトリーは、開拓使麦酒醸造所の敷地をそのまま受け継いだサッポロビール札幌第一工場の跡地に、1993年オープンした大型商業施設。サッポロファクトリー・マガジンはそのPR誌という位置付けだったが、地域の歴史を真摯に掘り起こすなど、質の高い編集方針で注目された。西村は、田中の協力を得て村橋の航跡を緻密にトレースした純然たるノンフィクションを連載、それを『夢のサムライ』という単行本にまとめた。村橋の再発見は、鹿児島のメディアでも取り上げられ、おりから鹿児島工場での現地生産開始を控えていたサッポロビールにとって格好の追い風になったと聞いた。
 鹿児島湾を隔てて、桜島の全貌を望める絶景の海岸に、薩摩藩島津家別邸だった仙巌園と、隣接した石造りの尚古集成館を訪ねたことがある。この集成館こそ薩摩切子から製鉄まで、28代当主斉彬がもくろんだ殖産興業の一大実験場だった。麦酒醸造所以外にも村橋が北海道で手掛けたのは、七重勧業試験場、琴似屯田兵村、葡萄酒醸造所、牧羊場など実に多岐にわたる。薩摩の集成館の進取の精神が、若い村橋に宿っていたのは誰も疑えない。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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