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 村ごと移転のすすめ ~被災民の末裔に生まれて~ (2)

Posted by Ikkey52 on 30.2012 原発   0 comments   0 trackback
 「およそ人として天変地異に遭遇し、財産を失い父母兄弟祭祀を失うほど悲惨なことはない。明治二十二年八月、大和十津川村大洪水の際、私は兵庫県巡査奉職中で、兵庫分署に在勤し郷里の天災を知らなかった。おいおい社会の問題になるに至って初めてその悲惨な状況を知ることになった。」
 私事で恐縮だが、これは私の父方の曽祖父、米蔵が老境隠居の身となっていた大正14年にまとめた「北海道移住回想録」の冒頭部分だ。奈良県の最南部、交通不便な山岳地帯に広がる十津川村が曽祖父の郷里。記述にあるように、村は明治22年8月に未曽有の集中豪雨に見舞われ、大規模な山崩れが村内1080カ所で発生。熊野川の谷に沿って山腹にへばりつくように立っていた多くの人家は次々と崩壊し、あるいは濁流に呑まれていった。米蔵が知らなかったのは郷里の天災だけではない。奈良教育大教授だった川村たかし著『十津川出国記』(道新新書)によると、大水害の当夜、米蔵の実家に人々が集まり、米蔵の父、有定の通夜が営なまれていた。その家は宇井谷で土砂に埋もれた4戸のひとつで、有定の亡骸も土砂とともに流された。
 こう書きながらデジャビュに襲われるのは、昨年9月の台風12号停滞によってこの十津川村の熊野川が山崩れでせき止められ、自然のダムが出現したショッキングな映像をまだ鮮明に覚えているためだろう。明治22年大水害による村内の死者は168人。出現した堰止湖の数は実に53。約1万3千人の村民のうち、4分の1が何らかの被災をし、生活の基盤を失った者は3000人にも及んだ。県の役人が「旧形に復するは蓋し三十年の後にあるべし」と記したというのだが、ここでまずフクシマ原発事故被災との類似に思い当たるのは、自分だけだろうか。
 十津川の村民の動きは急だった。帝室からの下賜金を使っての北海道移住が計画され、災害のあった翌々月には早くも600戸、2600人の移住志願者のうち、第一陣が村を出発した。
 米蔵の記述に戻る。
「奮然と意を決し移住の仲間に加わり、妻子を兵庫に残し、移住者と同船し小樽港に到着した。それから先輩を補佐し書記となり、最後に滝川屯田兵村に引揚げ、第三横道に戸長役場を新設し、更谷喜延氏が戸長となりその下で書記生を務めた。」
 米蔵最初の渡道は、郷里の仲間を無事入植地に送り届けるためのボランティアのようでもあるが、移住団には大災害で奇跡的に生き残った老母と二人の弟も加わっている。奈良では考えられない過酷なひと冬を、米蔵はあれこれ思いめぐらせて過ごしたに違いない。結局、本格移住を決意して行動に移すが、痛恨事が待っていた。
「翌年六月、妻子を呼び寄せるため内地に帰ったが、妻は病を得てついに癒えないまま死亡。三歳の児童を伴い再び北海道に渡ったのは明治二十四年の末だった。(渡道に先立ち)流失を免れた実家の財産を売り払いようやく五、六百円の支度金を得た。途中、神戸に立ち寄り叔父吉三郎に別れを告げ、汽車にて青森に向かった。」
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Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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