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あらためて"巨人・西部邁ロス"を論ず

Posted by Ikkey52 on 17.2018 評論   0 comments   0 trackback
 西部邁には“人生最後の著作”と銘打った自著が何冊もある。全くの偶然だが、最晩年の3冊を読んでいたものだから、西部の自裁それ自体には、実はさほど驚かなかった。それらの著書で西部は、しきりに自分の生は自分自身で終わらせるという決意を表明し、その具体的方法についても、当初思い描いていた計画が実現不可能になった事情も含めて、詳細に語っていたからだ。ただし、いくら言行一致がこの言論人の真骨頂だったとはいえ、付き合いのあった人、一人ひとりに感謝の電話を架け、明鏡止水を窺わせる状態で入水していったことを想うと、深い感慨に捉われてしまう。連れ合いに先立たれ孤独の淵を覗いた知識人の自殺として、江藤淳のケースを引き合いに出す論者がいるが、あまり良い比較とは思えない。

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60年安保闘争の先鋭化した部分を担った東大ブント、駒場全学連幹部として、「権力」の側から見れば、憎き扇動者だった。機動隊との衝突で3度も逮捕され、本人自身が実刑以外にないと腹をくくっていたのに、裁判長の温情で執行猶予が付いた。お祭り騒ぎが終わったことを悟り、潔く闘争から身を引いた。「ひと暴れしたかったから学生運動に走っただけで、マルクスもレーニンもまるで関係なかった」というのが、のちの西部の言だが、本音だろう。学部を卒業して大学院に進学したが、やさぐれた心境のまま小博打にのめり込む。徹夜明けの疲れた頭で、恩師の宇沢弘文さえ解けなかった数理経済学の数式を考えたら、解が浮かんだ。それが宇沢に激賞され母校の教授への道が開けた。多くの学生活動家仲間が、その後険しい人生の道のりを歩むなかで、西部は稀有な成功者になったかに見えたが、暴れ馬の本性は消えない。

 西部が教鞭をとったのは、経済学部ではなく教養学部。学生たちに講じたのは経済学ではなく経済学批判だった。その際、自分の足場として援用したのは、社会学、哲学、言語学などだった。社会科学としての経済学の未熟を指摘していたことになる。求められているのは学際的姿勢だと言い続けた。ジャンルに囚われない言論活動に共鳴して若い中沢新一を東大教授に迎えようと先頭に立ったが、教授連の裏切りにあって招聘計画が潰れると、学者バカへの激烈な批判を残して、あっさりと教壇を去った。200万円の退職金を受け取って素浪人となった。

 いわゆる「朝まで文化人」の一人として、広くテレビでも認知されたあとは、戦後の日本と日本人のあり方を問題とした。「平和と民主主義」というが、いまの平和はアメリカの核の傘のなかの平和ではないか。民主主義といってもその中身はポピュリズム(西部は皮肉を込めてあえてポピュラリズムと呼んだが)に過ぎないではないか、と。『大衆への反逆』と題した著作があるように、西部の戦後日本人に対する失望は年を追うごとに膨らみ、最後はニヒリズムに近い地点にまで立ち至っていた。これだけ訴えても、誰も聞く耳を持たない。同胞の命と財産を守るために、何らの覚悟さえ持たない国民に未来などない、と嘆いた。

 自ら言論誌を主宰するようになったこともあるが、核武装論を唱え始めてからテレビには敬遠されるようになったのではないか。彼の原発容認論だけは、どうしてもいただけなかったが、深い教養に裏付けられた世界認識といい、人間理解といい、文明批評といい、日本人思想家として飛びぬけた存在であったことに、異論を挟む余地はないと思う。ただし、西欧思想を縦横に取り入れることができる頭脳であったせいで、吉本隆明のようにオリジナリナルなキーワードを創造しなくても、現代の日本と世界をあれこれ不自由なく解釈できたことは、ある意味で思想家としての背丈を大きく見せられなかった恨みがあるだろう。
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沖縄と華夷秩序~解決しないままにしておきたい力学

Posted by Ikkey52 on 06.2016 評論   0 comments   0 trackback
 日本の南端にありながら、日本人全体の大きな関心の的であり続けている沖縄。それは「問題」がいつまでたっても解決しないことの証しだろう。『新・沖縄ノート 誰も語れなかった沖縄の真実』(惠隆之介著)は、少し古い本だが(2011年12月初刊)、自分がこれまで抱いてきた沖縄観を、木端微塵にした。「問題」は解決できないのではなく、「問題」を解決しないままにしておきたい力学が、いまだに働いているとコザ市生まれの著者はいう。自分は特に中国との関係に注目した。論旨は客観的な数字で裏付けられ、説得力に富んでいる。

 明治34年、最後の琉球王だった尚泰公爵が死亡。時の官選沖縄県知事が県民に喪に服すよう呼びかけたが、従ったのは首里の旧士族だけで、本島北部に至っては祝いの綱引き大会を二晩にわたって開いた。他県では旧藩主の遺徳を顕彰するところも多いだけに異様だ。それほどの恨みを買ったのは廃藩置県まで尚王朝が恐怖政治を敷いたせいだ。

 人口の9割近い農民は土地所有が一切認められず、八公二民の重税を課されていた。離島住民にはさらに重かった。農村には通貨も流通せず、2~3年ごとに「地割替え」という残酷な耕作地の強制移転が繰り返された。これでは農民の魂である「土地に根付く」感情は生まれようがない。衣服以外は全て共有というポルポト・カンボジアの農村も顔負けの原子共産農奴制に人々を置き、搾れるだけ搾り取った。朝貢の原資にあてるためだ。 黒船で沖縄に寄港した米提督ペリーは「メキシコの労働者をのぞけば、これほどまでに不幸な生活をしている人民を見たことがない」と述べたと伝えられる。

 琉球の中国王朝への朝貢のはじまりは14世紀。明の皇帝の求めに応じて初めて朝貢した琉球の人たちは、その莫大な返礼に驚嘆した。以降これを「唐一倍(とーいちべー)」と呼び、住民は10割近い儲けに慣れ、そうした華夷秩序に安住した。琉球人は本来、小舟で遠くマラッカあたりまで出かけてゆくような尚武進取の精神に富む。それを上から押さえつけ、ダメにしたのは中国に諂(へつら)う琉球王家だったわけだ。
 
華夷秩序への依存度を高めることは、中国王朝の間接支配を受け入れることに繋がり、冊封使をはじめとする多くの中国人の在留を招いた。親中勢力は増大して支那党を組織し、明治新政府による近代化政策にことごとく抵抗する。廃藩置県の号令も二度無視されて三度目にようやく実現したほどだ。こうした歴史の真実を我々はなぜ知らされてこなかったのか。惠によれば中国文化大革命の影響下で、1970年代初頭、一部労組が沖縄史の改竄に乗り出し、以来、琉球王国を極端に美化したり、沖縄戦を日本軍人の極悪非道ぶりだけで塗り込める見方が流布された。戦後の沖縄の経済が、戦前とは比較にならないほど発展したのは、敗戦で本土から分離され、ドル経済圏に組み入れられたことによるが、これも正視されず、反米感情だけがひたすら煽られた。

 中国との関係を有難がる風潮は未だに消えない。前知事仲井真弘多は、選挙リーフレットに自ら中国帰化人「蔡家」出身であることを誇示した。その仲井真は2011年1月、日本政府代表も出席した石垣市の尖閣開拓記念の日式典を欠席し、訪中していたことが判明している。現職知事の翁長雄志に至っては中国福州市の名誉市民だ。

 中国と親しくして日本を妬かせる。どちらからも見返りが期待できれば、尖閣列島の帰趨など決まらないほうがいい…。この手法は、沖縄米軍基地問題全般で、沖縄がとり続けてきたものだ。基地に土地を貸し、年間100万円以上の地代を受け取る地権者は約2万人に上る。そのすべてが沖縄県民ではないとしても、沖縄経済と基地の存在が密接に関わっているのはいうまでもない。それを知りながら、基地撤去と叫ぶ。すると懐柔策として補助金が降ってくる。ならば問題は抜本解決しないようがいい。全国紙の席巻を許さない二大地元紙は、軍用地で潤う地権者の声は載せないが、「軍用地投資 年利3%」の広告出稿依頼なら喜んで応じる。これもまた沖縄ウェイだ。「沖縄という思いこみ」から、ぼちぼち自由になりたいものだ。

SEALDsのあっけない退場と「戦後民主主義」

Posted by Ikkey52 on 17.2016 評論   0 comments   0 trackback
 組織ならぬ組織についてずっと考えてきた。堅牢に設計され、寛容性に欠ける組織は、結局のところ非人間的になる。8月15日をもって解散したSEALDsは、言ってみれば組織ならぬ組織だった。個人に行動を強制しなかった。SNS普及がなければ萌芽にも及ばなかったという意味において、日本の政治シーンに登場した新種の運動体だった。代表をあえておかなかった。奥田愛基なる学生が象徴的に遇されたに過ぎない。その限りでは面白い試みだったのだが…。

 ネット上にアップされたSEALDsの解散動画を観た。ダイイングメッセージのつもりだろう。戦争の惨禍と終戦後の混乱を切り取った映像が、現代東京の風景に溶け込んだ若者たち(SEALDsメンバー)の日常にカットバックされ、ラップミュージックが被る。ラップの歌詞の一部に以下のようなところがあり、書き留めた。
 「…かくも71もの月日に耐えた価値 墓標に刻まれた”非戦“の二文字は 紛争地 丸腰で闊歩する現代の侍を生んだ…」。  

 SEALDsとは何だったのか、探る上でこの歌詞は象徴的だと思う。終戦以来71年間、日本人の間に「戦争はしたくない」という共通感覚が一貫してあったことはわかる。ただ、それと、紛争地に丸腰で乗り込む馬鹿を誉めることの間には、目もくらむような飛躍がある。確かにジャーナリストや先鋭的ボランティアなら、紛争地でも武装はしない。とはいえ、少なくとも足を踏み入れる紛争地の紛争当事者については事前に詳細を捉まえ、可能な限り支配的軍事勢力の側に許諾を得る程度のことは絶対怠らない。つまり、彼らが非武装に見えるのは現象面であって、実質的、間接的には支配的軍事勢力のカラシニコフやロケットランチャーに守ってもらっているのだ。それを理解できないから、遠慮がちな集団的自衛権にさえ目くじらをたてることになる。非戦の信念に鼓舞されるままに、何も考えず紛争地を丸腰で闊歩するのは単なる自殺行為であり、それを現代の侍と呼んで称揚するのは最早悪い冗談でしかない。

 SEALDsが安保法に反対した拠り所とは所詮その程度のものだ。現実の国際情勢に目をつぶった内向きの観念論にもろに捉われている。出来損ないのミサイルを日本海に性懲りもなく発射してくる北朝鮮や、尖閣列島の接続海域に船団で押し寄せてくる中国、ソチ五輪直後の空白をついて隣国ウクライナのクリミア半島を占領したロシアなど、協調性欠落国家に日本は取り囲まれている。そんななかで人々の生命財産をどう守るか、SEALDsは最後までほとんど語らなかった。同世代間の論争の主役になったという話も寡聞にして一切知らない。

 1970年前後に最高揚期を迎えたものの、結局負けっぱなしだった日本の学生運動に今日的意義を求めるとすれば、それは「戦後民主主義くそ喰らえ」の発議だったと思う。いわば、きれいごとの峻拒だ。「戦後民主主義」はGHQが日本の去勢を念頭に絵を描き、日教組が強力なディストリビューターとして広めた共同幻想だった。今や右であろうと左であろうと「戦後民主主義」の幻想から目覚めた人はたくさんいる。ところが、SEALDsは「戦後民主主義」のまやかしに全く無自覚なほどウブだった。だから、日共や社民党、民進党の一部といった旧左翼が喜々としてSEALDsに接近し、政党野合の接着剤にしたり、若い層向けの人寄せパンダに使ったりと、選挙の道具として好き放題に利用した。

 奇しくもSEALDsが解散した当日、海の向こうのアメリカからバイデン副大統領の発言がニュースとなって飛び込んできた。トランプ共和党大統領候補に対して「日本国憲法は我々(GHQ)が書いた。知らないのか」とコメントしたのだ。「戦後民主主義」を相対化できている人にはとっくに常識だが、SEALDsの面々は果たして知っていたのか。残念ながら大いに危ぶんでいる。

「SEALDs」と「68年運動家」

Posted by Ikkey52 on 08.2015 評論   0 comments   0 trackback
 ジョン・ル・カレの小説『誰よりも狙われた男』の一節に、ドイツ・ハンブルクの若手美人弁護士アナベラが、親元で暮していたころを回想するシーンがある。
 
 弁護士とはいえアナベラは、「無国籍者および亡命者を保護するキリスト教系慈善団体」サンクチュアリー・ノースの活動に専従している。彼女は、父が外務省の法律担当、母は辣腕検事、兄は精神科医というエリート一家に育ったが、父と母がともにかつて急進派を自認していたことを知っていた。2人は学生運動でバリケードを築き、アメリカ人をヨーロッパから追い出せという垂れ幕を持ってデモをした「68年運動家」だった。学生当時アナベラは、家族の規律に反感を抱き抵抗もしたが、両親は「いまどきの若者は反抗のなんたるかもわかっちゃいない」と嗤っていた。笑ったわけではなく、「嗤った」のだ。

 「68年運動家」という言葉に、訳者の加賀山卓朗は「1968年は西ドイツで社会抗議活動がピークに達した年。バーター・マインホフ・グルッぺ、のちのドイツ赤軍もこの年に結成された」と注釈をつけている。イメージ喚起という意味で、ドイツ赤軍を持ち出したのはわからなくもないが、68年活動家は日本にもフランス、スイス、イタリア、アメリカ、チェコにもいた。もちろん、彼らが登場してくる社会的背景は一様でない。ただ、一党独裁のチェコはいうにおよばず、西側各国で起きた同時多発的な学生運動に共通するのは、既成政党や労働組合による権力奪取運動とは一線を画し、管理されること、禁じられることを徹底して拒もうという抵抗だった。
 
 アナベラの両親に「いまどきの若者は反抗のなんたるかもわかっちゃいない」と言わしめたのと同じ状況が、この夏、日本の国会前で見られた。2015年の流行語大賞を取り損ねたSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の存在だ。ネット上には、「運動スタイルの斬新さは認めても、『アベ死ね』などという次元の低い表現には、知性の欠片も感じられなかった」といった声や、「『戦争法案』とレッテル貼りしたあげく、『安保法制で徴兵制が始まる』とまで言うに至っては、妄想の域を出ない」という同世代の意見があった。
http://news.livedoor.com/article/detail/10915002/
 SEALDsのバックに日共=民青がいたことは、やはり間違いないようだ。共産党系の労組ナショナルセンター全労連から集会に使う街宣車を借りていた…、民青の現役委員長、田中某がSEALDsの渋谷デモを先導していた…、リーダーのひとり、奥田愛基が稚拙な日共擁護発言を繰り返していた…、などネットには状況証拠が溢れている。

 日本の68年運動家たちの圧倒的多数は無党派=ノンセクト・ラジカルだったが、たとえトロキストであろうと、、マオイスト、ローザ・ルクセンブルク主義者、構造改革派であろうと、日共=民青に対しては典型的既成権威と見做し打倒対象にしていた。なぜなら、自主独立路線という名の日本型スターリニズムに自らを純化し、党勢拡大のためとあれば、平気で管理する側に与するなど手段を択ばないからだ。

 いまや団塊の世代として老境に入ったかつての68年運動家たちが、実際には少数しかいないSEALDsメンバーを崇め奉るように幾重にも取り巻き、こともあろうに集会参加者の水増しに一役買っている図はなさけない限りだが、ホリエモンこと堀江貴文がSEALDsの本質を喝破して「共産党の新ブランド」と呼んだのには、「嗤った」のではなく笑ってしまった。

問われる「表現者の党派性」…保坂正康 『農村青年社事件~昭和アナキストの見た幻』

Posted by Ikkey52 on 07.2015 評論   0 comments   0 trackback
 昭和史の分野でいまや大御所ライターとなってしまった保坂正康が、自分自身の青年期に取材半ばでいったんは投げ出したテーマを再度拾い直し、現代の視点から再検討を試みた『農村青年社事件~昭和アナキストの見た幻』を読了。昭和初期から10年代にかけての出来事を、治安維持法違反に問われた集団裁判資料、その新聞報道などで辿る。

 事件は昭和6年、東京都下・目白文化村の一軒家でアナキズム思想を抱く男3人、女1人が出会うことから始まる。時節柄、4人は困窮を極める農村部への深刻な問題意識を共有した。当時のアナキズム潮流のメイン・ストリームは、アナルコ・サンジカリズム、つまり都市労働者のストライキ・生産点自主管理を手段として大日本帝国と渡り合う戦略だったが、4人はこれと一線を画し、自給自足、相互扶助の理念を基本として、社会変革を構想する「農村青年社(農青社)」を結ぶ。とはいえ、農青社の実態はせいぜい、「政治結社未満、文化サークル以上」に過ぎなかった。ところが、思いつめたメンバーの一部が活動資金のためにリャク(盗み)をやるほどのリアリズムを持ち合わせていたために、刑事警察に検挙され、事実上農青社は結社の体裁が整う前に、解散の憂き目に遭う。日本アナキズム運動史では、リャクは日本無政府共産党の代名詞であるのだが、保坂は、この党との農青社との人的つながりは記述しても、戦術の共通性について、何ら掘り下げていない。

 主要メンバーの「単純な刑事犯」としての下獄によって農青社が事実上解散状態になってから数年後、「戦争」の名のつかない「戦争」が中国大陸で広がりつつあった情況を背景に、ある地方思想検事が第二の大逆事件を捏造しようと画策する。具体的には、農青社の初期メンバーと、雑誌購読や意見交換、講演会出席を通して何らかのつながりを持った、主に長野県の農村青年らが、関係性の濃淡を問わず、一網打尽に治安維持法違反容疑で検挙された。思想検事のフレーム・アップは成功したとはいえないが、判事が思想検事に迎合せざるをえないという特異な司法秩序のなかにあって、起訴された青年たちは無辜の囚人となった。

 戦後とっくに市井の人となっていた「農村青年社」の主要メンバーを、保坂は昭和50年代に探しだし、再三インタビューを行いながら、結局は取材継続をあきらめた心境を何度も言い募り、それに絡めて当時の自分の私的環境を点描する。すでに死語だが、いわゆるニュージャーナリズムの形式を踏んでいる。ただし、取材対象者一人ひとりへの思い入れは表出させても、肝心の彼らの思想のひだには慎重に踏み込まない。表現者が一方で自身の私生活を語り口に差し挟みながら、他方で自らの青年期の「党派性」に口をつぐむのはいささか卑怯というもので、もし表現の基準がヒューマニズム、民主主義、立憲主義程度のものであれば、毒にも薬にもならない。歴史観を異にする文藝春秋社と朝日新聞社に、ともに重用されるという保坂の鵺(ぬえ)性が事件の解釈を、「志高い青年たちへの弾圧譚」に矮小化させているようにも思える。
 
 通読して深く印象に残るのは主要メンバーで紅一点の八木秋子だ。八木は服役後、昭和13年4月に出所、近衛文麿のブレーン集団である昭和研究会の主宰者、後藤隆之助邸に身を寄せている。後藤はヒトラーにもレーニンにもルーズベルトにも興味を抱く破天荒な政治運動家だった。八木は後藤邸に長居することなく満洲に旅立ったが、農村問題を若いころから研究したという後藤と「農村青年社」設立組のひとりである八木との間に、どんな会話があったのだろう。保坂は、八木に問いかけても、後藤邸に身を寄せたこと以外に何も語らなかったとしている。

 

  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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