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堂々たる農本主義思想家がいまだにテロに紐づけられる不幸…保坂正康『五・一五事件』

Posted by Ikkey52 on 29.2019 現代史   0 comments   0 trackback
 ずいぶん前の話になるが、茨城県出身の知人が滋賀の彦根に転勤した。着任挨拶に出向いた先々で、問われるまま水戸の生まれだと自己紹介すると、一瞬だが怪訝な顔をされる。それは、幕末の「桜田門外の変」に起因するわだかまりだったという。いうまでもないが、暗殺されたのは近江彦根藩主から幕府大老となった井伊直弼、襲ったのは水戸脱藩浪士だ。

 日本の近代史では、水戸人の革命性や過激さが時として恐ろしい勢いで突出することがある。上記の「桜田門外の変」がいい例だ。では、農本主義思想家で実際に篤農家でもあったひとりの水戸人、橘孝三郎と五・一五事件の関りも、その文脈で捉えればいいのか。

 学生時代、日本の農本主義とは何か知りたくて、権藤成卿や橘孝三郎の著作に挑戦したが、よく判らないままに終わった。保坂正康の『五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』で初めて、橘の人となりと思想、その遠景として見える権藤の立ち位置が、おそらくは輪郭程度だろうけれども、判った気になれた。

 特に橘の思想は、洋の東西、政治的立場の左右を問わない幅広い学識に裏付けられていた。将来のエリートを約束された一高生時代には、彼らの読書の通過儀礼であったデカルト、カントに親しみ、ヘーゲル、ショーペンハウエルへと分け入った。なにしろ、体調がおかしくなるほどの猛勉強だ。ベルグソン、マルクス、クロポトキン、北一輝と読み、結局トルストイの人生と、ミレーの農夫の絵に打ちのめされる形で学校を中退する。比較的裕福な商家に生まれたが、農家としてやっていこうと決めた。

 苦労の末、兄弟で作ったコミューン型の農園の経営を軌道に乗せた。若い農民を啓発する愛郷塾を主宰し、県や国にも一目置かせるまでになったが、その知名度と影響力があだとなり、一部海軍将校らが犬養首相らを殺害した五・一五事件の首謀者とされた。なにしろ損得というものを考えず、人を色眼鏡で見ないから誰とでも会う。交友範囲に一人一殺の井上日召や、反乱計画の中心を担った古賀清志海軍中尉らがいた。橘は弁明らしい弁明を拒否して無期懲役の刑に服したが、のちに恩赦となった。戦後は愛郷塾の旗を再び掲げ、思索に徹する生活を送った。民族運動家や農本主義を志す人々がひっきりなしに孝三郎詣でを続けた。

 著者の保坂は、当時水戸に住んでいた晩年の橘のもとに月1-2回のペースで1年余通い詰めて、この労作を書き上げている。「私は橘氏の人間的な魅力に会うたびに魅かれた。私は氏から個人教授を受けているようでもあった」。まさしく実感だろう。

 ただ、保坂は、橘の人間性への礼賛と、五・一五事件への関与は別だとして、しきりに昭和ファシズムの誕生と橘の思想の深い関係性に話を持っていこうとしているように見える。
ときには「君の質問内容はあまりに戦後民主主義に毒されている」と橘は顔をしかめ、それでも質問には答えてくれたという。「戦後民主主義」に大いに懐疑的な自分は、また保坂の悪い癖が出たな、と感じた。
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二隻の砕氷船 (下)

Posted by Ikkey52 on 01.2017 現代史   0 comments   0 trackback
 「宗谷」が改修を施され、南氷洋を行けるほどの本格的砕氷能力を獲得するのはもちろん戦後のことだ。官・民を通して戦前戦中の日本に国産の砕氷船は一隻しかなかった。それが海軍の砕氷艦「大泊」だ。大正10年(1921)11月に神戸の川崎造船所で竣工した。その名は、樺太の日本領有時代、樺太庁が置かれた都市、大泊(現コルサコフ)に由来する。ただし「大泊」は、当初から氷の海の航行を目的に建造が計画された船ではない。給油艦計画が急遽変更されたのだ。

 写真で見る限り、艦橋の幅が広いので重心がずいぶん高ように感じる。船尾のスクリューは両舷に一つずつあるが、軍艦の精悍さとは無縁だ。艦首部には氷を砕く鉄の歯のようなものが取り付けられていた。就役後、砕氷艦としての真価が問われる場面はすぐおとずれた。翌11年1月、山下汽船から海軍に輸送船として傭入されていた「中華丸」が、樺太中部西海岸の日ソ国境線に近いビレオ岬沖で氷に閉ざされ航行不能に陥ったのだ。救出命令を受け急行した「大泊」は、小柄な船体を「中華丸」の左舷にいったん横付けして周囲の氷を割り、「中華丸」を曳航する形で海氷原から脱出させた。 
 
 「大泊」の通常の行動海域は地味に終始北洋に限られ、海上警備、航路の障害物除去、漁場保全などにあたった。戦時中は、宗谷海峡や樺太東岸の亜庭湾を中心に不審船に目を光らせた。派手な武勇伝こそないものの、昭和20年の終戦まで、敵襲による沈没や大破を免れて任務に精励した。その意味では確かに、無事これ名馬を地で行くような海軍有数の功労艦ではあったが、如何せん旧式だったため、深刻な船舶不足に悩む新生日本にあっても新しい役割は結局見つからなかった。

 当初給油艦として計画された「大泊」がなぜ砕氷艦に切り替わったのか。背景には、国民的な批判の的になるという海軍史上まれな屈辱が横たわっていた。尼港事件の責任論だ。 尼港事件とは大正9年(1920)の春、アムール川河口の街ニコラエフスク・ナ・アムーレになだれ込んできた赤色パルチザンによる住民大虐殺のことだ。広大なロシアの東のはずれに位置するニコラエフスクだが、鮭鱒をはじめとした漁業資源、森林資源、砂金などの鉱物資源といった大河アムールの豊かな恵みを集積し、搬出するのに適していた。極東ロシアの港として最初に開かれたのはそのためで、ロシア人はもとよりユダヤ人、日本人、中国人、コリアンらが混住し、小さな国際コミュニティを形成していた。

 尼港事件の詳細はすでに以前に述べたので繰り返さないが、、日本海軍がこの事件で屈辱にまみれたのは、港が氷結して軍艦が近づけず、結果として日本領事一家を含む在留邦人の保護も日本軍守備隊への増援も一切できなかったことによる。当時の新聞報道にあたると、日本国民が示した悲憤慷慨の凄まじさが伝わってくる。

二隻の砕氷船 (上)

Posted by Ikkey52 on 29.2017 現代史   0 comments   0 trackback
 平和な時代の砕氷船といえば、南極越冬隊員を乗せて日本と昭和基地を何度となく往復した海上保安庁の南極観測船「宗谷」の名が真っ先に浮かぶ。遠く南氷洋の果ての白い大陸に、科学研究の橋頭堡を築こうと悪戦苦闘する「宗谷」の姿に、大人たちは破滅的敗戦の痛手から立ち上がろうとする祖国の歩みを重ねた。少年少女たちにとっては、南極から新しい夢を次々に運んでくる宝船のように見えた。樺太犬タロ、ジロの奇跡の生存を描き、記録的ヒットとなった映画「南極物語」では、名脇役も演じた「宗谷」だが、その船歴の波乱万丈は案外知られていない。 
宗谷

 昭和11年(1936)、ソビエト連邦通商代表部から日本に耐氷型貨物船三隻の発注があった。長崎の川南工業香焼島(こうやぎしま)造船所で竣工した三隻のうち一隻が、のちに「宗谷」となるのだが、進水セレモニーの一環で行われる命名式で、船名はロシア語の「ボロチャエベツ」と発表された。ボロチャエベツとは、「ボロチャエフの戦友」という意味で、シベリア内戦期の最終盤、ハバロフスクの白軍残党が極東共和国軍に最後の戦いを挑んだ戦場の名でもある。母港もカムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに決まっていた。純然たるソ連船として就役が見込まれていたわけだ。

 ところが、満洲国が成立して以来、日本の関東軍が事実上、同国の防衛部隊の中核としてソ満国境まで進出した結果、日ソ関係は一気にぎくしゃくしはじめていた。貨物船の建造が始まり、三隻が相次いで竣工する時期は、両国の軋轢が大規模な軍事衝突となって沸点を迎えるノモンハン事件の前夜と重なっていた。したがって、三隻のソ連への引き渡しには、風雲急を告げる二国間関係がもろに影響して、いっこうに道がつかなかった。

 軍部は部外者ではあったが、当然成り行きを注視していた。三隻には耐氷輸送能力のほかに、イギリス製の最新ソナーが備わっていて、測量も可能だ。ただ、ソ連発注の船舶をまるで横取りするように日本海軍が買収し、管轄下に収めるのは、時節柄、さすがに刺激が強すぎる。こうした理由が重なり、貨物船「ボロチャエベツ」は、結局、商船「地領丸」として登録され、民間チャーター航路に就役する。傭船契約の終了を待って、日本海軍が「地領丸」を買い取り、艤装し直したうえ、雑用運送を任務とする特務艦「宗谷」と命名するのは、昭和15年(1940)のことだ。以来、「宗谷」は北樺太から、サイパン、ラバウル、ミッドウェー、ソロモン等の激戦を潜り抜け、不沈を通して訓練中の室蘭港で終戦を迎える。

 ちなみに、「宗谷」建造を受注した川南工業の名に引っかかりを覚えた読者は、現代史の達人だろう。軍艦造船の需要がなくなった川南工業は戦後あえなく倒産したが、1961年に発覚したクーデター未遂、いわゆる三無事件の首謀者として、代表取締役だった川南豊作が逮捕され世間を驚かせた。旧軍人、右翼活動家らを糾合して、国会議事堂占拠、要人暗殺を企てたとされる事件は、一審で破壊活動防止法(政治目的殺人陰謀罪)が初適用されたこともあって、今もなお公安事件史に名を留めている。

米人記者に信奉者をつくった石原莞爾の凄味

Posted by Ikkey52 on 09.2016 現代史   0 comments   0 trackback
 第二次大戦の惨禍を引き起こした日本の軍部に関して、擁護すべき事情はこれっぽっちもないが、かといって当時の軍人の誰もが暗愚だったわけではない。ものごと単純化するのが流行だが、歴史解釈に善か悪かの二元論を持ち込むのは、若い世代にバトンを繋がねばならない大人としてはやり無責任だと思う。例えば東京裁判で異例の出張法廷まで用意させ、歯に衣着せず英米の非を鳴らしながら、全く罪に問われなかった石原莞爾の存在などは、単純な二元論の視野では影も形も捉えられない。

 石原について書かれた本は実に多い。かなり薄味ながら『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢 上・下』(福田和也著)のような大部もあるが、石原の戦後の言動を中心に論じた早瀬利之の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』は新鮮だった。あの時代を語らせたら滅法うるさいノンフィクション作家の礫川全次も、自分のブログに早瀬本から仕入れた石原の名言をふたつ挙げている。ひとつは、終戦わずか半月後の東亜連盟宇都宮支部大会での第一声「皆さん、敗戦は神意なり!」。もうひとつは、終戦翌年にアメリカ人のマーク・ゲイン記者の質問に答えた「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ」。

 石原が満州事変を画策し、張学良軍を蹴散らして満洲国建国に道を開いたのは紛れもない事実だ。そんな人物が「民主主義云々」を言うことに、胡散臭さを覚える向きはあろう。しかし、満州事変のあとの石原は、二・二六事件には「断固鎮圧」で全くぶれず、中国本土侵略をはじめた盧溝橋事件以降の対中政策にも反対を貫いている。太平洋戦争開戦時はすでに私人だったが、「油が欲しいからと戦争を始める奴があるか」と絶対不可と説いた。

 シカゴ・サン紙特派員で日本語が解せたマーク・ゲインは、戦勝国民として日本に乗り込んできたあと、熱烈な石原信奉者となった。ゲインが石原に会ったのは、一説によると独自取材ではなく、東京裁判の検事による石原の臨床尋問に同席した機会だった。
 「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ」に続けて石原は、「特高警察と憲兵隊のおかげで、国民はいつも怯えていた」と述べている。同趣旨の発言を別の場で石原から聞いたという元部下の証言もある。「東条個人に恩怨はない。ただし、彼が戦争中言論抑圧を極度にしたのを憎む。これが日本を亡ぼした」(金子定一)。

 東条英機を「東条上等兵」と呼んで小馬鹿にしてきた石原は、その東条から疎まれ予備役に編入されて、立命館大の教壇から追われただけでなく、郷里の鶴岡に引っ込んでからも365日、特高と憲兵の監視下に置かれた。「国民の怯え」は身を持って知っていたのだ。ゲイン記者は「マッカーサーのあとの指導者は石原莞爾」とまで入れ込んでいたらしい。 

隣りの大国の「忘れられたシベリア抑留」

Posted by Ikkey52 on 28.2016 現代史   0 comments   0 trackback
 終戦以降、旧満州で武装解除された日本兵や満州国官吏らを中心に、60万~70万人の日本人が旧ソ連軍によってシベリア各地の収容所に連行され、国際法上の根拠のない厳しい奴隷労働を強いられた。シベリア抑留である。敗戦したドイツの兵隊にも同様の運命が待っていたが、ドイツ人のシベリア抑留者は日本人の4倍にものぼった。知る人ぞ知るの話だが、本稿の主題は日独のシベリア抑留ではない。中華人民共和国成立後まもなく、北京政府がソ連との密約によって、罪もない国民100万人を労働力としてシベリアに送っていたというのだ。

 この極秘の動きを証明するのは、アメリカ国務省とアメリカ極東軍司令部(東京)の間で交わされた1950年1月24日の電報だ。有馬哲夫の『歴史問題の正解』から引用する。
「…30万人の中国人労働者がすでに満州からシベリアに送られており、さらに70万人が6ヶ月のうちに華北から送られることになっている。中国のあらゆる施設と炭鉱にソ連の技術者が受け入れられることになっている。ソ連式の集団的・機械的農業を夢見る熱烈な親ソ派は、農民がいなくなった耕作地と残された人々の飢餓を平然と眺めている…」。

 建国まもない時期の北京政府は、朝鮮戦争にかかりきりだと思っていた、という有馬は、この電報が交わされた前の年にすでにチベット侵略が緒についていたことにあらためて気づく。チベットばかりではない。当時の北京政府は、ベトナム、ミャンマー、タイ、ラオスの各国境にも激しい軍事的圧力を加え、版図拡大に狂奔していたのだ。中国の朝鮮戦争への加担を、広義の自衛目的と見ずに、こうした文脈から見直すとどうなるか。参戦を通じて中国は、北朝鮮の事実上の宗主国になれたのだから、これもまた露骨な拡張主義の一環と読める。

 もちろん、北京政府の貪欲な対外膨張を可能にしたのはソ連の裏書があればこそだ。満洲、華北から駆り出され、シベリア送りになった100万人はそのための人柱ということになる。「満州と華北の人民といえば、軍閥同士の覇権争い、日中戦争、ソ連軍の侵攻、国共内戦によって多大の被害を被った人々だ。新生中国は、よりによって、もっとも戦禍に苦しんだ同胞をシベリア送りにし、その代わりとして、ソ連の技術者を派遣してもらい、隣国を侵略する権利をソ連から得たのだ」。

 それにしても、他国(大日本帝国)の侵略を受ける痛みを十二分に知りながら、建国宣言から間髪を入れず近隣諸国の侵略に乗り出していく北京政府のメンタリティは、いまとなってはなかなか理解できるものではない。朝鮮半島で火を噴いたように、冷戦に伴う東西のオセロゲームの過熱ぶりと関連付けて考えるしかないが、その冷戦も終わって久しい。にもかかわらず、冷戦末期に開始した反日教育を継続し、反日モニュメントを各地につくって日本に対する被害者意識を再燃させている。他国政府(日本)の歴史認識にくちばしを挟み、南沙、西沙両群島はいうにおよばず、戦後、沖縄の一部としてアメリカの委託統治下にあったことが明白な尖閣諸島にまで、理不尽な領有権を主張するなど、中国の領土拡張主義はその後も全く変わっていない。
 人柱としてシベリア送りになった100万人の子孫が声を上げ、厳しく国の責任を問えるような開かれた国なら、とっくに独裁政権は倒れ、チベットもウイグルも圧政から逃れられるところなのだが…。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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