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潰された日米総力戦研究

Posted by Ikkey52 on 16.2016 現代史   0 comments   0 trackback
 日米開戦前、三井物産ニューヨーク支店はエンパイア―・ステイト・ビル7階にあった。昭和16年3月、ひとりの日本軍人が社員を装って目立たぬように支店内にデスクを置いた。参謀本部付主計大佐、新庄健吉。新庄の任務は、日米間が緊張するなかで、アメリカの国力を詳細に分析し、参謀本部に報告することだった。

 西木正明の小説『ウェルカム トゥ パールハーバー』には、陸軍中野学校創始者のひとり、岩畔豪雄と新庄とをあわせて造形したと思われる諜報将校が登場するが、新庄自身は諜報のスペシャリストではない。陸軍経理学校を経て、軍の派遣生として東大経済学部大学院に学んだ歴とした主計将校だ。非合法活動をせずに、公開情報を収集し、地道に数字の分析を続けた。駆け出しのジャーナリストは先輩から、「公開情報を念入りに読めば、大抵のことはつかめる」と教わるが、一国の総合力全体の把握となると気が遠くなる。IBMの計算機を駆使したというのが事実であれば、それからして彼我の差に驚く。

 国力比較といえば、昭和15年秋から始まった総力戦研究所の取り組みがある。猪瀬直樹がノンフィクション『昭和16年夏の敗戦』にまとめ広く知られたが、こちらは総理の直轄機関。選ばれた官僚や武官、民間の若手エリートたちが、昭和16年7月から8月にかけて、日米戦争が総力戦として戦われた場合の机上演習に従事した。シミュレーションは恐ろしいばかりにリアルで、緒戦の勝利、その後の長期戦による国力の疲弊、そしてソ連参戦までが予見され、日本必敗の結論しか出ようがなかった。

 戦争の帰趨を、兵器兵力の優劣や兵員の士気など軍事力のみから考える時代はすでに去っていた。国の総合力に桁外れの差がある場合、勝敗は戦う前からついている。しかし、総力戦研究所の研究結果を受けた東条英機は、日露戦争を引き合いに「実際の戦争は意外裡の要素がある」と一蹴した。若手エリートたちに無力感だけが残った。

 「鉄鋼1対24、石油産出力1対無限、石炭1対12、電力1対5、アルミ1対8、飛行機1対8、自動車1対50、船舶保有量1対2、工業労働力1対5、重工業1対20」。
 新庄がはじき出した日米対比データが、日本大使館付武官補佐官に赴任中の岩畔豪雄を通じて、参謀本部にもたらされたのはやはり昭和16年夏。一方、新庄の孤軍奮闘とは別に、陸軍経理局内では、進歩派学者を動員して英米のみならず独伊ソまで幅広く経済力を探る秋丸機関が動いており、その研究成果が陸軍幹部向けに開示されたのもほぼ同じタイミングだ。http://www.mnet.ne.jp/~akimaru/a-kikan/kikan.htm
 いずれも日米開戦を不可とするものだが、ことごとく≪根拠のない勝算=「意外裡」期待説≫に潰されていく。

 激務の影響か、新庄は病を得てワシントン市内の入院先で12月4日に息を引き取る。身分はすでに物産社員からワシントン駐在陸軍武官府員に変わっていた。葬儀は期せずして、12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃開始と重なる。それに野村、来栖両大使が長々と参列したから、国務省への最後通牒提出が遅れた、と断ずる異説があった。その説に従えば、結果として新庄の葬儀の設定が、日本外交史上最大の汚点、国辱を生んだことになる。のちに、参列者名簿に両大使の名前はなかったと分り、異説は根拠を失うが、同時に新庄の名も忘れ去られた。三井物産ニューヨーク支店を去るにあたり、新庄は世話になった社員をディナーに招き、「日米開戦があれば必ず日本は負ける」と語って座を凍りつかせた。また「数字は嘘をつかないが、嘘が数字をつくる」と寂しげな表情を見せたという。
http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/mumyouan/mumyouS04.html
 非売品の小論を除き、いまだに新庄の「人と仕事」を正面から論じた書籍が、ほとんど見当たらないのは残念というしかない。

旧軍に怨嗟消えず…沖縄戦のトラウマはいまも

Posted by Ikkey52 on 03.2016 現代史   0 comments   0 trackback
 自分のなかの「沖縄戦」は、おおざっぱに表現すると以下のようなものだ。沖縄本島全域が猛烈な米軍の艦砲射撃に晒され、街にムラに山に砲弾の雨が降りそそぐ。丘が丸ごと吹き飛ばされて地形さえ変わる。そのなかを日本軍兵士と住民が逃げ纏う。銃弾は尽き、食糧もない。最後は、がま(洞窟)に逃げ込み、自決したり火炎放射器で焼かれたりした…。ところが、その米軍の上陸がどこからどう始まったのか、恥ずかしながら少しも分かっていなかった。

 調べてみると、米軍上陸地は嘉手納正面。上陸支援の艦砲射撃は中西部の北谷、嘉手納、読谷を狙って開始されていた。1945年4月1日午前5時30分のこととされる。東シナ海側が米軍艦艇で埋まったのだ。軍・民ともに惨憺たる被害を受け、大本営が組織的戦闘の終息を発表したのが6月25日。逃げ場のない、あの東西に細く狭い島内で、およそ3ヶ月もの地上戦が続いたこと自体、なんとも痛ましい。 

 米軍はこの沖縄進攻作戦を「アイスバーグ(氷山)」と名付けた。作戦の目的は、①(沖縄に)軍事基地を確立すること、②東シナ海から中国沿岸及び揚子江流域にわたる海路および空路の安全性を確保すること、③日本に対して間断ない圧力をかけることの三点。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/exhibition/2008/08/post-11.html
 守備に当たる日本兵と島民を殲滅する意図などもちろんない。結果として殲滅戦の地獄絵を現出させたのはひとえに日本陸軍の方針による。

 米軍の嘉手納上陸時、日本軍司令部は首里にあった。それを第三防衛線とし、第二防衛線は前田高地に敷き、さらに前線となる第一防衛線を嘉数高地に置いた。沖縄本島に第一歩を印した米軍は日本軍の抵抗がほとんどないのに拍子抜けしたという。首里に近い那覇市街は前年秋からの米軍機による空襲でほぼ壊滅していた。

 「沖縄戦の始まりから終わりまでを見るツアー」を現地で主宰する生態学者の下地幸夫によると、米軍が首里に進出しようとしていた5月21日から大雨が降り出し、戦線は10日間にわたって膠着した。その間、首里の陸軍司令部では、首里死守か、南部への退却かが検討され、結局、退却しての持久戦方針が決定された。沖縄戦で犠牲になった県民の8割は南部撤退に伴うもの。首里で闘いは終わるはずだった、と下地は悔やむ(『広告』2016年夏号)。

 格闘技で息がさきにあがった側が負けるように、戦闘はたいていの場合、最後に消耗戦と化す。火力の優劣はむしろ一時的なもので、雌雄を決するのは持久力の差だ。北はアリューシャンのアッツ島、南はニューギニア、西はインパールまで、日本の兵隊は補給路のない戦場に立たされ死んでいった。沖縄の闘いも例外ではないが、県民の集団疎開が失敗した結果、多数の非戦闘員が軍に追随せざるをえず、犠牲者が甚大にのぼった点で、沖縄戦は確かに特異だ。

 終戦から71年たつが、現地では、旧日本軍への怨嗟や反感が、県民世論のリード役である2大県紙とローカル民放3局のなかに、いまも脈々と受け継がれ、1年365日、毎日が8月15日であるかのような報道が県民の日常に溢れかえる。善か悪かの二元論が報道姿勢として適切かどうか、あえて問うまでもないが、沖縄のマスメディアのそれは、八重山日報を除き変わる気配がない。沖縄戦のトラウマの大きさをあらためて想う。

霞(かすみ)・近衛家・愛知大

Posted by Ikkey52 on 27.2016 現代史   0 comments   0 trackback
 霞山(かざん)会館という貸会議室兼宴会場が、中央省庁合同の庁舎を兼ねる東京・霞が関コモンゲート西館の一角を占めている。同会館は一般社団法人霞山会の事業の一環で、もともとこのビル敷地の地権者のひとつだった。

 霞山会館と紛らわしいが、一般社団法人霞(かすみ)会館という団体が別に存在する。これは旧華族の親睦団体で、戦後に華族制度が廃止されるまでは華族会館と呼ばれていた。日本初の超高層建築として建てられた霞が関ビルに入居しているのは、やはりかつての地権者という関係からだ。

 ともに霞が関にある霞山会館と霞会館。ふたつを太く繋ぐ名家があった。近衛家だ。近衛家は旧五摂家筆頭の家柄で華族制度創設に伴い公爵に叙せられ、その長子は華族会館に名を連ねてきた。霞会館の「霞」は、初代館長の有栖川宮熾仁親王の雅号「霞堂」にちなむという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9E%E4%BC%9A%E9%A4%A8
 
 一方、霞山会館の経営母体である霞山会は、前身を東亜同文会といい、終戦まで上海で東亜同文書院を運営していた。海外にできた日本初の高等教育機関だ。東亜同文会初代会長が近衛文麿の父篤麿だった関係で、霞山会の名は篤麿の雅号「霞山」から取られていた。http://www.kazankk.org/kazan/history.html

 東亜同文会は半官半民の国策団体で、篤麿の遺志を受けて、アジア主義に深く傾斜していた。東亜同文書院は、多くの外交官、政治家、実業家を輩出している。同時に、中国語が堪能になる同院出身者は、日本軍との関わりで特務やスパイとして暗躍した者が多い。ジャーナリストを隠れ蓑に阿片王として君臨し、満洲国建国にも関わりのあった里見甫などは、同院出身者のなかでも異彩を放っている。

 あまり知られていないが、篤麿の長男文麿も5年ほど東亜同文書院の院長を経験した。文麿の長男で、篤麿から見れば孫にあたる文隆については、以前にも触れており多くを記すつもりはないが、一時期、たしかに同院の講師兼学生主事のポストについている。留学先のアメリカから軍国化のすすむ日本に戻り、異端視されつつあった文隆を上海に逃がしたのは、父文麿の配慮だが、文隆は上海在勤中、蒋介石との直接交渉の道を模索しようとして物議を醸し、結局、関東軍の一兵卒として懲罰的召集を受けることになった。敗戦でソ連抑留者の群れに入ったとき、たかだか中尉に過ぎない若造が、将軍並みに戦争犯罪を疑われ、生きて収容所を出られなかった不幸は、近衛家という出自ぬきには考えられない。

 終戦に伴い廃校の憂き目にあった東亜同文書院の流れが、愛知県豊橋市にある私立愛知大学に受け継がれていたという事実は、一橋大名誉教授の加藤哲郎がロシア史関係の民間フォーラム「桑野塾」で行った講話を録音で聴くまで、全く知らなかった。http://deracine.fool.jp/kuwanojuku/
 
 愛知大は、東亜同文書院(大学)の最後の学長、本間喜一が同院の教職員や学生に呼びかけて1946年、愛知県豊橋市の旧豊橋陸軍予備士官学校跡を使い、法文系の旧制大学として設立にこぎつけたとされる。GHQから見れば、同院の戦後復活は好ましいわけがない。しかも愛知大の立ち上げには、やはり終戦で廃校になった京城、台北の両帝大教職員もはせ参じたというから、当初は相当な風圧に晒されたものと思われる。1993年になって、この特異な歴史を背負った大学は「東亜同文書院大学記念センター」を設立している。毅然としてその血脈を明らかにしたわけだ。

忘れられたクーデター「三無事件」

Posted by Ikkey52 on 17.2016 現代史   0 comments   0 trackback
 「一部右翼、旧軍人等による不穏計画について御報告申し上げます」
 東京五輪を3年後に控えた昭和36年(1961)12月14日、衆院本会議で発言を求めた国家公安委員長の安井謙はそう切り出した。発言を許した衆院議長は、東京裁判で東条英機の弁護人として名を売った清瀬一郎。時代が偲ばれるが、60年安保闘争の余燼がくすぶり、浅沼事件、嶋中事件と血腥い右翼テロが続くなかで、今度はクーデター未遂が発覚したのだから衝撃は大きかった。検挙されたグループが3つのスローガン、「無税・無失業・無戦争」を掲げていたことから三無事件と呼ばれる。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/040/0512/04012140512002a.html

 破防法が初適用された大事件で、最終的に検挙された32人は起訴組、不起訴組に分かれるが、その顔ぶれには、元陸軍少将の桜井徳太郎、元海軍中尉で5・15事件を起こした三上卓ら旧軍人のほか、学生もいた。桜井、三上は処分保留で釈放されている。

 首謀者は元川南工業社長の川南豊作。川南の会社は戦中、軍の求めに応じて粗製船舶を大量建造し、急成長を遂げた一大軍需コンツェルンで、昭和11年(1936)にソ連から受注した特別設計の砕氷船2隻のうち1隻が、のちに初代南極観測船として有名になる「宗谷」だった。しかし、戦後まもなく同社は倒産、川南はクーデターで樹立される臨時政府の軍需に会社復興の夢をかけた。http://kh16549.blog.fc2.com/blog-entry-159.html

 三無事件に関わってこんな名前もあるのか、と驚かされた人物がいる。池口恵観だ。池口といえば、つい3年前、競売にかけられた朝鮮総連中央本部(東京都千代田区)の土地・建物を45億1,900万円で落札したものの、資金集めに失敗して断念に追い込まれた鹿児島県在住の謎の住職として初めて世間の耳目を集めた。安倍晋三ら中央政界に顔が広いだけでなく、芸能人、スポーツ選手、広域暴力団関係者、北朝鮮政府、右翼人士とも不思議な繋がりを持つ。その池口は本名鮫島正純として、クーデター計画の末端にいた。本件で不起訴になった池口の検察側証人としての証言によれば、事件発覚の2ヶ月前に川南からの紹介で衆院議員馬場元治の秘書におさまった。そして国会議事堂内の電源・通信機器の配置や警備員の数を調べた。200人で国会を襲撃するにあたって、国会内部から突入のタイミングの合図を首尾よく送るためだった。

 政権転覆計画としての熟度を考えれば、三無事件は児戯に等しい。押収された装備に限れば、自衛隊の作業衣、戦闘帽99点、鉄カブト300個、米海軍用ガスマスク150個、投弾練習用の手榴弾1個、ライフル銃数丁、日本刀数振りほどに過ぎない。被告側控訴を退けた東京高裁も「決行日をしばしば変えざるをえないほど計画が杜撰で空想的要素もなくはない」と断じたが、それでも評論家の大宅壮一は「5・15事件と非常によく似たケースだ」と警戒心を隠さなかった。http://yabusaka.moo.jp/sanyu.htm

 三無事件に先立って、昭和25年(1950)にも吉田首相暗殺を狙った元陸軍参謀の服部卓四郎らによるクーデター計画があったが、決起には至らず、事件化されていない。戦後日本で武力による政権転覆の余地がわずかでもあったとすれば、それは、「政治状況に不満を抱く多数の旧軍人の存在」と、「冷戦の激化(非武装日本に対するアメリカの強い苛立ち)」という2大条件下に限られただろう。その一方でも無くなってしまえば、クーデターなどこの国では絵に描いた餅になる。論者によっては三島事件をクーデター未遂に数えるが、事件の性格としてはやはり象徴的な場所を選んだカルト的パフォーマンスのひとつと見た方がよさそうだ。

巨魁・児玉誉士夫の汚名と宿願

Posted by Ikkey52 on 15.2016 現代史   0 comments   0 trackback
 人の評価は棺桶の蓋が閉まって初めて定まるといわれる。例えば、世上、児玉誉士夫という人は外国企業から賄賂を取り、日本政府の既定方針を捻じ曲げた「悪徳金権政治ブローカー」として記憶されている。その印象はほぼ全て、ロッキード事件に負う。特に、国会の喚問からも、特捜検察の捜査からもひたすら逃げ回った往生際の悪さは、他のどの被告より際立っており、一面識もないポルノ男優からセスナ機によるカミカゼ攻撃を受けるなど、その村夫子風な容貌は国民的怒りの的だった。

 歴史、特に現代史は新発掘の資料によって更新される宿命だ。ロッキード事件発覚当時は、「金権首相の馬脚」、「独自の石油戦略をとる田中政権へのアメリカの鉄槌」など、尤もらしい解説が新聞報道を中心にあって、大多数はそれに納得してきた。しかし、アメリカ政府機関の情報公開制度を利用してCIAをはじめとする公文書、極秘メモを広く渉猟し、日本の公許戦中戦後史に書き換えを迫ってきた早大教授有馬哲夫の登場以来、ロッキード事件の評価もそれに連座した児玉誉士夫の位置づけも変わってきた。

 そもそもアメリカの法では、自社製品売り込みのために外国でしかるべき人物にリベートを払うのは犯罪ですらない。事件報道の一環でそれを報じたメディアはあったが、ほとんど無視された。児玉はロッキード社の利益のために活動し、成功報酬を受け取った。マネーロンダリングにも協力したか、利用されたかした形跡がある。それらに違法性があったとしても、戦争中に掴んだ大陸のレアメタルを元手に戦後財を成し、政治プロデューサーに君臨していたころの児玉なら、簡単にもみ消せたはずだ。ロッキード事件当時、児玉はもう政治プロデューサーと呼べなかったが、その座に復帰すべく資金蓄積を急いでいたのだ。

 古い理解では、児玉はコードネームまで持つCIAエージェントとして捉えられていたが、正力松太郎がそうだったように、あるときはCIAに寄り添い、あるときはその利害に反して動くしたたかさを持っていた、と有馬は見る(『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』)。右翼の鉄砲玉から出発した児玉だが、戦後は一貫して日本の再軍備を果たしてくれる政権誕生に向けて工作した。それは冷戦下のアメリカの利害とも合致していた。最初に児玉が推したのは鳩山一郎だったが、首相の座に就いて間もなく、日ソ国交回復を優先させるようになり、次に重光葵に目を付けたが急逝されてしまう。

 60年安保改定に情熱を燃やす岸信介に、肌合いの全く違う児玉が期待したのは、幕末の不平等条約並みの旧安保を日本側から破棄できるように改めることで、再軍備の道を拓こうとの戦略だった。そのために社会党にも気脈を通じ、分裂した民社党にも金銭的な肩入れしたことがCIA文書で裏付けられている。岸辞任後は、池田、佐藤と再軍備に無関心な政権が続く。児玉は、河野一郎、大野伴睦と結んで政権獲得を目指すが、自民党で多数派を形成できない。児玉がやっと見出した次の首相候補こそ中曽根康弘だったのだが、海の向こうのアメリカで、知らぬが花だったロ社の海外不正送金の中味が、ウォーターゲイト事件の余波にビビった会計事務所によって上院小委員会に暴露され問題化する。本来、白と認定されていたのに、である。議会に呼びつけられたロ社の売り込み戦略司令塔、コーチャン副会長が追い詰められて、洗いざらい証言するのを児玉はどんな思いで聞いたか。

 政治プロデューサーとしての児玉は、ダーティなカネを作りはしたが、それを惜しげもなく見込んだ政治家につぎ込み、私腹を肥やさなかった。彼の三男が覚えている父親は、いつも庭の草取りをしていて、使用人に間違われたこともあったという。一面の真実として受け止めてもよさそうだ。児玉が一貫して追求した日本の自主防衛も、占領期を引きずったアメリカ軍駐留体制の解消が狙いで、軍国主義への郷愁などではなかった。

 それにしても昨今の政治家たちのスケールの小ささはなんだろう。象徴は、政治資金の私的流用など致命的問題でもないのに、言い逃れに終始した都知事桝添要一の小心さだ。一方、外遊でやれファーストクラスに乗った、やれスィートルームに泊まった、と政治家の動きを妬み嫉みの目でしか見ない有権者たちも浅ましい限りだ。児玉のような人物が暗躍していた時代のほうが、この国はむしろまともだったのかもしれないと感じている。
  

プロフィール

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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