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あのゾルゲに先んじたベリヤ筋の日本人諜者

Posted by Ikkey52 on 11.2016 エスピオナージ   0 comments   0 trackback
 第二次大戦で、ある意味決定的な岐路になったのは、ヒトラー・ドイツに攻め込まれていたスターリン・ソ連の諜報網が、日本の南進政策を掴んだことだ。スターリンは、対日戦に備え、極東・シベリアに膨大な兵器、兵力を展開していたが、これを一気に西に送り、首都モスクワに向けて猛攻してくるドイツとの前線に投入することができた。そうでなければソ連は敗北必至だった。

 では、スターリンに「日本、北進せず」の重大情報をいち早くもたらしたのは誰だったのか。
 元朝日新聞記者で、近衛内閣のブレーンも務めた尾崎秀実は、同期入社組だった朝日新聞東京本社政治経済部長、田中慎次郎を通じて、当面対ソ戦は行わないとした陸海軍首脳部会議の決定を知ったほか、近衛内閣のブレーン同士だった関係で、西園寺公望の養孫、公一からも同趣旨の情報を、陸軍首脳部と関東軍代表者の会合の結論として聞かされている。もちろん、尾崎の情報はゾルゲに通報され、ソ連赤軍参謀本部第四本部を通じてスターリンに届けられた。ただし、スターリンがゾルゲ報告に狂喜乱舞したとは伝えられていない。すでに同種情報を別の諜報ルートから入手済みだったからだ。

 作家、西木正明には、太平洋戦争前夜の日米英ソの謀略と諜報戦を描いた大作、『ウェルカム ツゥ パールハーバー』がある。そのなかで西木は、暗号名「エコノミスト」なる日本人の二重スパイが、北樺太石油会社関係者の昼食会で左近司政三予備役海軍中将から「日本南進」をうかがわせる発言があったことに反応し、ソ連側に通報した、と核心に迫っている。作中では最後まで「エコノミスト」の実名は明かされないが、西木の意中では、スイス、イタリアで大使を務め、開戦前夜に外務次官まで上り詰めていた天羽英二こそ、その人だったろう。
「エコノミスト」がもたらした重大情報は、KGBの前身、内務人民委員部を率いていたラヴレンチー・ベリヤからスターリンに「特別報告」として、ゾルゲ情報より5日早く、届いていたことが、2005年の共同通信モスクワ支局のスクープでわかっている。しかし、「エコノミスト」の正体はほんとうに天羽だったのか。

 朝日新聞を定年したあとも20年以上、ニュース雑誌『アエラ』を中心に社外執筆者として書き続けてきた伝説の敏腕記者、長谷川熙は、2010年8月16日号の『アエラ』に、実名こそ伏せながら、「エコノミスト」とは誰か、という問いに結論を出している。ヒントは、朝鮮戦争期の東京で発生した在日ソ連代表部二等書記官失踪事件、いわゆるラストヴォロフ事件にあった。長谷川の『崩壊 朝日新聞』によると、米側に亡命したラストヴォロフの暴露を端緒に、日本の在日米軍情報漏洩が立件され、国家公務員法(守秘義務)違反事件の容疑者として、ひとりの外務省職員の名前が浮上した。高毛礼茂(たかもれ・しげる)。「エコノミスト」という戦前の暗号名が一致したのだ。1940年の新聞には、高毛礼が北樺太石油の代表としてソ連側との交渉当事者として登場する。調べてみると、ハルビン学院一期生。あの杉原千畝と同期か。つまりロシア語が話せて、もともとスパイとなる下地ができていたとみていい。西木の描く通り、おそらくは二重スパイだったと考えたほうが自然かもしれない。

 それにしても、世間に流布されている戦中戦後史では、ラストヴォロフの情報源となった他の外務省職員たちと同様に、高毛礼は「その他大勢」の端役でしかない。まして、上告が棄却され、実刑と罰金が科された1960年以降、高毛礼の消息については、何一つ情報がつかめない。歴史の暗部に関わった大物スパイの退場の仕方としては、なるほど鮮やかというほかない。
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「フルシチョフ秘密演説」全文流出の知られざる経緯

Posted by Ikkey52 on 26.2015 エスピオナージ   0 comments   0 trackback
 1956年2月のソ連共産党第20回大会における「フルシチョフ秘密報告」、いわゆるスターリン批判は、まさに現代史の一大事件だった。ところでこの「秘密報告」はいつ、どのような形で「秘密」でなくなり、世界中に流布されたのだろうか。これまでなんとなく見過ごしていた歴史の空白を、ある綿密な取材が見事に埋めてくれた。スパイ小説家としても知られる伝記作家のマイケル・バー・ゾウハーとイスラエル人テレビジャーナリストのミシム・ミシャルの共著『モサド・ファイル~イスラエル最強スパイ列伝』がそれだ。

 クレムリンの異変はただちに噂になり、西側にも伝わった。しかし、ソ連のメディアが全く報じなかったために、演説全文の入手は、とりわけ西側の情報機関にとってはきわめて大きなミッションになっていた。CIAは報奨金を100万ドル用意した。東側各国も動揺したため、まもなくフルシチョフは東欧共産党幹部に限って、全文の配布を認めた。

 ポーランドの国営ニュース通信社〈PAP〉でソ連東欧部の編集部長を務めていたジャーナリスト、ヴィクトル・グラエフスキにもスターリン演説全文が世界的スクープの的になっているのはよくわかっていた。ヴィクトルにはいわくつきの美しい恋人がいた。ポーランド共産党書記長オカブの秘書であり、ポーランド政府副首相を夫に持つルチアだ。といってもルチアの結婚生活はすでに破綻しており、ヴィクトルとルチアは周囲も公認する恋人同士だった。1956年4月上旬、いつものようにヴィクトルが党書記長室にルチアを訪ねると、彼女の机の上に最高機密のスタンプが押された赤い冊子が乗っていた。フルシチョフ演説全文だった。

 ヴィクトルはユダヤ系で、両親と妹はすでにイスラエル移住を果たしたが、筋金入りの共産党員だった彼は自らの意志でポーランド残留を選んだ。ところが、両親に会いに行ったイスラエルで、自由な民主国家の進歩的空気に触れる。停滞したポーランドとは対照的だった。帰国後、ヴィクトルはイスラエル移住を考え始めた。小冊子を見つけたとき、ヴィクトルに途方もない考えが浮かんだ。家でゆっくり読みたいから数時間貸してほしいという申し出をルチアはあっさり受け入れてくれた。冊子に目を通したヴィクトルはその内容に改めて衝撃を受け、ソビエト陣営の土台を揺さぶる爆破装置を自分が手にしていることに気づいた。足はイスラエル大使館に向いていた。警官や防諜機関員の目もあったはずだが、ジャーナリストだから堂々と入っていった。1時間ほどで大使館を出たヴィクトルは約束の時間より少し早くルチアに冊子を返すことが出来た。全文の内容はイスラエル政府中枢に届き、対米カードとしての重みに気づいた首相ベングリオンの判断でイスラエルの情報機関モサド経由でアメリカCIAに提供された。イスラエルのベングリオン政権は米アイゼンハワー政権に大きな貸しをつった形となり、見返りとしてモサドとCIAの関係は飛躍的に発展した。

 ヴィクトルは1957年にイスラエル移住を果たした。冊子の一時持ち出しはルチアのほか誰にも気づかれなかった。この男にはその後も幸運の女神が微笑み続ける。なんとKGBが工作員にならないか、とヴィクトルに接触してきたのだ。ヴィクトルから通報を受けたモサドは歓喜し、何食わぬ顔で誘いに乗るよう勧めた。こうして二重スパイが誕生した。1971年にスパイ稼業から足を洗うまで、ヴィクトルはKGB側から全く疑惑を抱かれなかったばかりか、高い評価を受けてレーニン勲章授与が決定された。一方、2007年になってヴィクトルは、KGBに長年ニセ情報を流し続けた功績を称えられイスラエル政府から名誉ある勲章を授けられているから、敵味方双方から叙勲した唯一の秘密諜報員となった。

衆院解散とハニートラップ

Posted by Ikkey52 on 18.2012 エスピオナージ   0 comments   0 trackback
無人島で生き残る『ロビンソン・クルーソー』と、不死身の好色スパイ『007』。一見まったく無関係に見える2つの物語には不思議なつながりがある。『ロビンソン・クルーソー』を書いたのは、十八世紀のイギリスで名を成した小説家のダニエル・デフォー。実はこの男、小説家になる前は本物のスパイで、諜報大国イギリスで工作員の祖とされる人物だった。
イングランドとスコットランドはある時期まで厳密な国境で分かたれ、それぞれに別の国会を有する独立国だった。統一を望んだのはイングランドほうで、スコットランド国会では反対論が強かった。イングランドのスパイ、デフォーはひそかにスコットランドに潜入、統一反対派のかく乱にあらゆる工作を重ね、ついに合邦を成立させた。

美人スパイの得意技は甘い誘惑と相場は決まっている。いわゆる「ハニートラップ」という古典的罠は、戦後もイギリスの政官界をよく揺るがしたものだが、日本も例外ではなかった。龍サマと呼ばれ国民的人気を誇った首相経験者、橋本龍太郎が再起を図れなかった理由がまさにそうだといわれるし、総理の野田から「近いうちに解散する」と重大な言質を取りながら、総裁再選を賭けた大勝負から降りざるを得なかった谷垣禎一の弱みもそこにあったとされる。罠を仕掛けてきたのはいずれも中国。チャイナドレスの威光恐るべしだ。

外交暗号に接する立場にあった上海の日本総領事館員が、現地女性との交際をタネに中国政府公安筋を名乗る人物から脅され、それを苦に自殺する事件が2004年にあった。表では良好な二国間関係を謳いながら、裏では非合法な手段で、日本の外交暗号を狙ってくる気味悪さ…。国際政治のリアリズムを垣間見たような思いだった。当時の官房長官は、のちに総理に上り詰める福田康夫。当然日本政府は、中国に対し国際法に違反する行為があったと再三抗議していたというが、福田はその事実をがんとして認めなかった。単に中国側に貸しをつくったにすぎないのか、それとも、政官界の下半身問題をまな板にのせると、もっと手痛いしっぺ返しが中国から予想されたからなのか。そこには知られざる日中外交史の重大局面があったはずだ。
衆議院の解散によって、政界大物の引退が相次ぐ。福田も、羽田孜、森喜朗とともに政界を去る。彼ら首相経験者のなかには、サービス精神の旺盛さが裏目に出て、マスコミに片言隻句を頻繁に捉えられ叩かれた人物もいる。福田の場合は、国民の目や耳の代わりを務める記者たちに日頃から高圧的にあたり、しかも終始秘密主義であった印象が深い。「言わぬが花」を信条にしているらしいことや、首相就任の経緯にしてもワンポイント的であることから、回想録の出版も期待薄だ。中国スパイによる上海領事館員脅迫事件の真相は、結局闇に葬られてしまうのだろうか。

ル・カレの小説世界に迫った映像  ~映画「裏切りのサーカス」礼賛

Posted by Ikkey52 on 21.2012 エスピオナージ   0 comments   0 trackback
 優れたサスペンス映画とはなんだろうか。目の肥えた観客を、一瞬たりとも飽きさせず、最後の最後まで翻弄し、振り回すシャシンかもしれない。本年度アカデミー賞3部門ノミネート作、「裏切りのサーカス」に思い切り振り回されてきた。一度見たきりなので、おそらくは見落とした仕掛けがもっとあったに違いない。2度、3度見ねばならない、そんな気にさせられた作品だった。
 原作は、スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレの最高傑作「スマイリー3部作」のひとつ、「ティンガー、テイラー、ソルジャー、スパイ」。派手な撃ちあいともカーチェイスとも無縁で、官僚組織の末端に生きる人間たちの苦悩が透けて見える正統派エスピオナージュの作風は、大人の読者には何ともたまらない魅力だ。
 それにしても、これだけ入り組んで複雑なストーリーの小説を、よくぞ映画に仕立て上げ、しかも極めて上質なレベルに高めたもの。感嘆に値する。日本映画の父とよばれた牧野省三は、映画づくりのキモについて、「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」と語っている。テクノロジーの進歩で映像の鮮明さをいう「ヌケ」には全く問題がなくなった現代でも、スジ(ストーリー)とドウサ(演技)が締まらなければ、ここまでの映画はできない。スウェーデンの映画監督トーマス・アルフレッドソン恐るべしというところだ。
 冷戦下、ソ連KGBと鋭く対峙する英国情報部MI6(通称サーカス)で、作戦の失敗や情報漏洩が相次ぎ、組織のリーダー、コントロールは内部にソ連の二重スパイ「もぐら」がいる疑いを深める。折からハンガリーの将軍が「もぐら」の正体をイギリス側に売りたがっているとの情報が入り、コントロールは他の幹部には内密に直接ジム・ブリトーに極秘任務を与えてブダペストに送り込むが、それは東側の罠だった。ジムは背中を撃たれて取り押さえられ、ハンガリー政府からはイギリスの謀略活動があったと宣伝されて作戦は大失敗。責任を問われたコントロールは腹心の幹部スマイリーとともに組織を追われ、失意のうちに死ぬ。その後、トルコのイスタンブールで活動中のサーカスの工作員が、「もぐら」の情報を握るKGB女性工作員と恋仲になり、彼女の英国亡命を画策するが、ロンドンへの連絡の直後にKGBに彼女を拉致される。二重スパイの存在を確実とみた内閣の情報担当次官がついに動き出し、過去の人となっていたスマイリーを非公式に召喚、ようやく「もぐら狩り」が始まる…。
 会話だけでソ連圏の辺境という地政学上の位置が明快になるブダペストのシーンが渋いし、ウェイターに化けた東側エージェントの男が、袋の鼠となったジムのオーダーしたコーヒーをサーブする際、緊張のあまりテーブルに思わず落としてしまう汗一滴をアップしたのがまたは申し分ない。イギリスのスパイものでは定番となっているイスタンブールの描写は、エキゾティズムが過多だと目も当てられないが、そこをぐっと我慢して成功している。
 スマイリーの回想という形で、映像はときおり時間を遡る。「もぐら」にかき回される以前、クリスマスパーティで羽目を外すサーカス職員たち。そこでレーニンのお面を被ったサンタクロースが登場し、ソ連国家を歌いはじめるとみんなの合唱になるシーンがいい。敵に対する敬意とまでは言わないが、スパイの世界の戦いは、結局頭脳戦なのであり、好敵手とは何度となく知恵比べをすることになる。サーカスの二重スパイを操る東側の黒幕カーラに対して、若き日のスマイリーが抱いた愛憎入り混じった感情まで、スコッチの肴として描き出していた。台詞の練り上げがすごい。同じパーティで流れるシャンソン「ラ・メール」がまたいい。だれが歌っているのかわからなかったが、ブログでどなたかに「フリオ・イグレシアス」と教えられた。最後のクレジットもろくに見ずに、茫然と余韻に浸っていた自分はやはり未熟な観客だった。極上のひと皿に残された究極のソースを、パンでこそぎとらないままにしてしまった気分だ。それにしても、ロンドンでなぜ車がシトロエンなのだろうか。見る人が見れば、たぶんリアルを感じるのか。いやはや、芸が細かい。

小型カメラ「ミノックス」とスパイたち

Posted by Ikkey52 on 10.2012 エスピオナージ   0 comments   0 trackback
 職業秘密諜報員には、二重スパイが少なくない。深く刺さり込めば込むほど、相手にも取り込まれやすい。そのうち、どっちのために働いているのかわからなくなる。
 
 世界最高の二重スパイといえば、キム・フィルビーの名が浮かぶ。なにしろ、英国国内防諜の最高責任者であるMI6の長官候補だった男がソ連に亡命し、鉄のカーテンのむこうで英雄になり、顔写真が切手さえなったのだから。スパイ先進国をもって任ずる英国のメンツは丸つぶれになった。
 フィルビーは、イギリス最高学府のひとつ、ケンブリッジ大に学び、同国情報機関に就職した「隠れ共産主義者たち」、いわゆるケンブリッジ5人組のひとりだ。フィルビーが所属したケンブリッジのトリニティ・カレッジは、16世紀に開学し、31人のノーベル賞学者を輩出した超名門。だが、というか、だからというか、ロシア革命のあとマルクス主義者の巣になった。さすがに日本の皇室関係者は、ケンブリッジには留学しない。ライバルのオックスフォード大に行く。

 前置きが長くなった。カメラ機材の話をしたかった。その名はミノックス。高級で著名なカメラ・ブランドのひとつだ。北海道新聞の橘井潤編集委員が3月9日夕刊で薀蓄を傾けている。
 当然、ドイツ製品だと信じ込んでいたが、実はバルト三国のひとつ、ラトビアが創業地。1937年のことだという。ソ連ではスターリンの大粛清がピークに達していた。日本のスパイマスター杉原千畝は、ユダヤ人に運命のビザを大量発給することになるリトアニア・カウナス駐在にはまだなっていない。カウナスの前任地、フィンランドのヘルシンキに通訳官として赴任した年だ。二度目の世界大戦に向けて、歴史の時計が秒読みになっっていく微妙な時代だ。そのころの話は、わけもなくぞくぞくする。ヒトラーとスターリンが交わした独ソ不可侵条約の秘密協定で、ラトビアが旧ソ連に併合されたあと、生産拠点はドイツに移された。

 スパイ、キム・フィルビーが愛用したのがミノックス。当時の技術水準から見ると、手の中にすっぽり隠れてしまうコンパクトぶりは、驚異といえた。愛用者がまた面白い。1962年のキューバ危機でソ連側の情報をアメリカに流し、結果的に核戦争を食い止めたとされるソ連参謀本部情報総局(GRU)大佐オレグ・ペンコフスキー。米海軍暗号システム情報をソ連に売って、100万ドル以上のスパイ報酬を得たとされるアメリカ海軍上級准尉ジョン・ウォーカー。またケネディ大統領暗殺犯でソ連スパイの疑惑のあったオズワルドも使ったらしい。写真誌「フォーカス」のスターカメラマン福田文昭が、ロッキード裁判判決で法廷の田中角栄をスクープしたときにもミノックスだった。

 カメラに疎い人でも、「女王陛下の007」や「スパイ大作戦」「死刑台のエレベーター」、邦画では「陸軍中野学校」シリーズなどを再度観賞すれば、ああ、あれか、とわかるはず。およそカメラとは思えない、小型のペンシルケースのような形状。深夜のオフィスに忍び込み、金庫からマル秘資料を持ち出してパチリ。そして、何事もなかったかのうように、金庫に資料を戻しておく。盗むのはブツではない。情報だ。幅9,5ミリのマガジン入りフィルム。ひとこまの大きさは8×11ミリ。超がつくミニサイズでありながら、第一号から1000分の1秒で作動する高速シャッターを装備するなど、高性能を誇っていた。
 
 いまは同じブランドでデジタルカメラが出ている。その名は、ずばりミノックスDSC。DSCはデジタル・スパイ・カメラの略だ。解像度も格段に上がったけれど、ずっとフィルム機に親しんできた古参スパイはボヤくかもしれない。
 「やっぱり、フィルムのテイストがよかった」と。
  

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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