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酒呑み話④…日本編

Posted by Ikkey52 on 20.2019   0 comments   0 trackback
 越乃寒梅ブームに引き続き、八海山、浦霞、久保田、〆張鶴など、灘や伏見の大メーカー品ではない地酒が、全国ブランドの人気を誇るようになったのはいつからか。以来、日本酒は異次元の旨さを獲得したと思う。同年代が集まると、日本酒談義が止まらない。

 まだよく肥えていない若い舌には、日本酒がうまく乗らなかった。二級、一級、特級という格付けがあった時代だ。飲み方が乱暴だったに違いなく、すぐ悪酔いして、翌朝も辛い。いきおい敬遠した。ワインや芋焼酎がポピュラーな酒になるのはもっと後の話で、「とりあえずビール」の乾杯が終わったら、ウィスキーの水割りに切り替えるのがスナック文化全盛期の社会人の常識だった。気づくと学生当時愛したホワイトは、角になり、ダルマに代わり、そのうちシーバス・リーガルに代わっていた…。
 いまやウィスキーはごくたまに飲む酒になってしまったが、どちらかといえばアイラ系が好みだ。焼酎は透明な甲種が癖のある乙種に先駆けて広まったと記憶する。警察関係者は酔って自分を見失うのを恐れてか、スナックでも甲種で通す人が多かった。

 薄い財布と縁が切れない自分のような飲兵衛にとって、銀座は敷居が高い。行き当たりばったりに入店すると大やけどをするので警戒したものだが、上司に紹介された老舗のバーでカルヴァドスを口にするとき、しみじみリラックスした気持ちになれた。老夫婦で営む古い店の客筋は実にみごとなもので、悠々自適の身と思われる老紳士がきりっとネクタイを結んで静かに現れ、タンブラーの氷を鳴らしていった。
 初訪問のオーセンティックなバーで、メニューを渡されたりすると、若いころは気後れしてしまい、オーダーが決らなかった。タンカレーのジンなら間違いはないと、いつのころからか思うようになり、迷うことはなくなった。

 鹿児島では芋焼酎を六四のお湯割りでいただくし、沖縄では、オリオンビールと泡盛のうっちん茶割りを飲む。
うっちん茶はウコンを煎じたもので、悪酔いしないとみんなが言う。土地の人の話は信じたほうがいい。酒と風土の関係は思う以上に密接だからだ。現地では島らっきょうや豆腐餻、スクガラスという小魚の塩辛などをつまみにして、いくらでもやれる泡盛も、旅先から家に持ち帰ってみると全く駄目だ。

 江戸期に出版された『北越雪譜』は、雪国の風俗や暮らしを詳細に綴った百科事典風のベストセラーだが、その舞台、新潟・魚沼地方の日本酒蔵を見学したことがある。新潟の辣腕民放記者だった男が、いつの間にかIT企業の経営者となっており、酒造会社に照会の労を取ってくれた。日本酒の命はいうまでもなく米と水だが、土地柄、どちらも申し分ない。忘れていけないのが酵母で、味噌蔵などでもそうだが、長い年月をかけて作業所内に独特の味を齎す酵母が棲みつく。創業享保2年という青木酒造の蔵はいたって新しく清潔だったが、旧屋から酵母菌が棲みつく神棚そっくり移設し、その下にタンクを配するという工夫の跡が面白かった。若い杜氏たちのきびきびした動きが、冬の終わりのひんやりした空気をさらに引き締める。醸造過程や米の磨き方が違う酒を、片っ端から飲み比べるという、夢の体験を許された。銘酒「鶴齢」ブランドのなかでも、気に入ったのは大吟醸でも純米でもなく吟醸タイプ。四合瓶一本しか持ち帰れなかったのが、悔しかった。町場では、まずめったにお目に掛かれない。

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酒呑み話③…欧州編

Posted by Ikkey52 on 18.2019   0 comments   0 trackback
 旅先で体調を崩すほど心細いことはない。パリのサン・ラザール駅からフランス国鉄に乗り、隣席になった修道女たちと、ぎこちなくはあったが会話を楽しみながら、取材先のシェルブール駅に着くまで、まったく自覚症状はなかった。寒気とだるさを覚えたのは、港の突端にポツンと建つプチホテルにチェックインしてからだ。…風邪だ、まずい。

 翌日は早朝からスケジュールが詰まっている。ひと月に及ぶ取材旅行も始まったばかりだ。どうしても一晩で回復しなければ…。映画「シェルブールの雨傘」の舞台になった街をぶらぶらほっつき歩くプランは早々に諦め、相棒のカメラマンに事情を話し、ひたすら眠った。夕食のテーブルには就いても食欲がまるでない。日本なら熱燗を頼みたいところだが、無理というものだ。チーズが風邪に効くという話を思い出し、デザートを待った。好きなだけ取れと、供された何種類ものチーズを片っ端から無理して地酒の赤ワインで流し込んだ。そのせいか、朝になったらウソのように体が軽くなっていた。以来、ワインとチーズのマリアージュには、特別な思い入れを持っている。

 ヨーロッパといっても首都のような大都市ではなく、地方を歩いてみて気づいたのは、豊かな地酒文化の存在だ。地元の小さな酒蔵でつくられるウィスキー、ビール、ワインが土地っ子の食生活に深く入り込んでいた。ラベルのないボトルで出てきた地ワインの味に感激したのは仏リヨンのビストロ…。地酒の芳醇な香りに驚き、ウィスキーはシングルモルトに限ると悟ったのは、英イングランドとスコットランドの国境近く、カンブリア地方の小都市カーライルのバーだった。

 ドイツの最高裁判所がある街カールスルーエで、看板に惹かれ飛び込んだ小さな居酒屋は、フリの客などめったにない、地元民の社交場だったらしく、居合わせた人たちは東洋人二人の唐突な出現に目を丸くした。相棒である年長のカメラマン氏はビールさえあればご機嫌というわかりやすい人で、まずは地ビールをふたりでまずグーっと干す。つまみに国民食のソーセージを頼んだつもりが、言葉がうまく通じない。客たちは心配そうに自分と主人とのやり取りを聞いていたが、英語を通訳してやろうという者は現れない。そのうち、客のひとりが、自宅にいるカミさんなら英語が話せる、と主人に言ったのだろう。受話器の向こうの女性と話して、怪しい東洋人の注文はようやく主人に通った。

 客たちはほっとしたようにどよめき、我々を巻き込んでカンパイの嵐が始まった。店のソーセージは格別においしく、ボリュームもあった。夜が更けて客が入れ替わり、英語を話すインテリ風のおっさんが、日本人に会えてよかったと話しかけてきた。もう一度アメリカと戦争をやろう、今度はきっと勝てる、と力説する。おっさんと固い握手を交わし、店を後にした。
 国内で戦中派の話をいろいろ聞きながら育った世代だが、それが酔っ払いのたわごとではあっても、旧同盟国の国民の本音を聞くのはもちろん初めてだ。何か知ってはいけない秘密を盗み聞きしたような不思議な興奮が続き、なかなか寝付けなかった。

酒呑み話②…学生編

Posted by Ikkey52 on 15.2019   0 comments   0 trackback
 昭和であれ、もうすぐ終わる平成であれ、学生たちにとっての酒とは、安価に酔えて、友人たちと時間を共有するための道具だろう。味は二の次、飲み方にも知らないから、よく酒に飲まれる。いまやおしゃれな酒の一種にも見えるホッピーも、飲み過ぎるとえらいことになった。

 ホッピーの味を覚えたのは、西早稲田の甘泉園に近い一杯飲み屋「W」。甘泉園は都立の公園で、もとは尾張徳川家の江戸下屋敷だった。夏場に歩くとその鬱蒼とした佇まいに驚かされた。近くには安兵衛湯という銭湯があった。赤穂浪士のひとり、堀部安兵衛に因む。そういえば、かつてあのあたりは安兵衛町と呼ばれていたのかもしれない。

 「W」はシンプル極まりない店で、土佐出身で幸徳秋水の親戚にあたる爺さんが、いかにも詰まらなそうに、ひとりで切り回していた。切り回すといっても、酒はホッピー、つまみは厚揚げくらいしかない。退職した年寄りの余技だった。お世辞にも繁盛していたとは言えないが、長身で整った顔立ちの爺さんが醸し出す、ある種虚無的な雰囲気に惹かれて、学生客がぽつぼつあった。夕方早いうちから店を開け、夜の8時過ぎには閉店していたような記憶がある。学生相手とはいっても、留年生でなければ原則御法度という面白いルールがあった。すでに留年生OBになっていたと思うが、ばりばりの有資格者であったという檀一雄の息子(つまり、女優檀ふみの兄)から、台湾のたばこを貰ったことがある。

 学生時代の酒の想い出には、侘しさを伴うものもある。
 大学よりもずっと熱心に通っていた映画製作の講座で、受講生中最年長の中年男Tと知り合った。妻帯者だが子のない人で、ドキュメンタリー映画の道に進みたくて、水俣モノで有名な土本プロに出入りし、郵便局の臨時職員で食いつないでいた。家に来いという誘いを素直に受けて、千葉の安孫子まで出かけた。二軒長屋風の小さな借家だった。トリスの大びんが卓袱台に出てきたとき、悪い予感が当たったと思った。貧乏学生の間でも、トリスは悪酔い酒として忌避されていた。サントリーなら何百円か高くても必ずホワイトを飲むべし、という雰囲気があった。
 清楚な美人ではあるが、不幸な影が透けて見える痩せた細君が仕事先から返ってきて、山菜と身欠きニシンの炊き合わせを出してくれた。初めて食べる料理だったが、それはことのほかおいしく、つい勧められるままにグラスを重ね、やがて記憶が無くなり、気づけばトイレでゲーゲーやり、泊めてもらおうなどとはおくびにも考えていなかったのに、死んだように朝まで眠った。目覚めると、細君はもう仕事に出でいて、いなかった。自分はひどい自己嫌悪に苛まれ、Tに礼を言って早々に最寄駅に向かった。

 Tは九州出身で、高卒後、会社勤めの傍ら、社会人登山サークルの活動にのめり込んだが、仲間を山の事故で無くし、以来それが心の重荷になってきたと、打ち明け話をした。山男と青春のセンチメンタリズムがシンクロした時代は確かにあった。お人よしなことに自分はなんの疑いも持たず、同情したのだが、そのうち、彼の言うトラウマは、定職に就かない言い訳ではないかと考えるようになった。Tがときおり連絡してくるので、その後もしばらく関係を保っていたが、彼と映画論議をする気は失せていた。相変わらず映画業界で働く希望を口にするものの、一向に積極的に動こうとしない。そのうち、狭山の近くの古い団地に独り暮らしする老母のもとに転がり込んだ。苦労を背負わせるために結婚したような細君はすでにTの下を去っていた。実母の年金をあてにしての同居だと思うと、彼の口をついて出た言葉のはすべては、その場しのぎの出まかせだったような気がして虚しくなった。

 将来の職業が定まらないばかりか、何のとりえもないと不安に苛まれていた学生の自分が、初めて接した生身の社会人……。Tの存在をそう規定していいかもしれない。
 いまも安孫子という地名を聞くとき、かつて読んだ重苦しい小説のタイトルのような響きを感じる。そして、思い出す。自己嫌悪を抱えてたどった駅までの朝の道、くすんだ街の色。そして、小説に描かれていなかった結末、つまり、彼の細君のその後はどうなったのかと、しきりに想像を巡らせた時間があったことを……。

酒呑み話①…アジア編

Posted by Ikkey52 on 14.2019   0 comments   0 trackback
 公称「毎晩飲む派」ということにはなっているが、例外として健康診断前の数日間は断酒することにしている。勝手にラマダンのようなものだと思っている。わずかな休肝日とはいえ、なんとなく体が締まったような気になれるから不思議なものだ。40代半ばのころ、念願の北朝鮮取材が本決まりになると、この際、健診で指摘された脂肪肝を完全に直してやろうと思い立ち、ひと月半ほど飲まなかったのが、たぶん社会人になって最長記録だろう。

 そのときの酒解禁は元山に向かう万景峰号の上。平壌では滞在初日の夜中に禁を破ってホテルを抜け出し、真っ暗闇の平壌駅改札口に侵入したのがばれて、案内員という名の監視役に徹底マークされてしまった。夕食後は自由行動をとれないよう、必ず彼らに地下のバーに文字通り拉致された。風邪気味なので部屋で休んでいても電話で呼び出される。そんなこんなで、せっかく落ちていた体重が帰国時にはリバウンドしてしまった。北朝鮮から太って帰ってきた人など聞いたことがない。内心恥じ入った。
 あの国で忘れられないのは妙香山の散策中、真昼間から飲んだドングリ酒だ。ドングリで酒を造るのは貧しさゆえだが、案の定、再び飲もうとは思わない味だった。
 
 酒は食事によって選び、基本的にはどんな酒でも飲むのをポリシーにしてきた。もちろん、旨いにこしたことはない。韓国では、ビールのジョッキに韓国製ウィスキー入りのショットグラスを沈めた爆弾酒を作法に従って飲まされ、文字通り撃沈したことがある。いまでも当時を回想しただけで吐き気がする。
 国連が介入して混乱から脱し始めたころのカンボジアはおそらく密輸天国だったのだろう。高いフランスのブランデーが実に安く買えたので、取材ベースにしていたプノンペンでは、まがい物かと疑いつつ、ガブ飲みしていた。
 
 役得で人民大会堂の公式な宴に招かれたときは、芽台酒(マオタイ)でもてなされた。中国土産といえば芽台という時代があって、北京の空港まで芽台臭かった。紹興酒は南の酒で、中華料理なら何でも紹興酒、というのは日本人の思い込みだろう。ハルビンでは白酒(パイジュ)攻めにあったこともある。コーリャンなど穀物で作るアルコール度数の高い白酒は、北に限らず、四川や台湾でも造られるというから、こちらが本来の国民酒なのかもしれない。「この国にはふらふらになるまで飲んで友情が生まれる、という言い伝えがあるんです」とかなんとか言いながら、ギブアップ寸前の客のミニグラスにも酒を注いでくる。ウォッカの流儀そのままだ。

 ウィスキーのソーダ割とシェリー酒を覚えたのはマニラだった。焼酎までソーダで割る癖がついたのはそれ以来だ。だいたい暑い国の人は炭酸類を好むようだ。フィリピンは基本的にビール文化の国で、タイでシンハやタイガーなどのビールが国民的ブランドであるように、フィリピンはサンミゲルの金城湯池だ。役人や警察への賄賂として、一宿一飯の恩義に与る先への土産として、あるいは結婚の許可を求めて相手の実家を訪ねる際の御機嫌取りとして、ケースでドンと持っていくサンミゲルは万能だ。

 酒が御法度のイスラムの国でも、多少ましなホテルなら、アルコール中毒だと申告すれば、酒を出してくれると聞かされた。パキスタンのダッカでそれをやったが、無視されて終わった。何日か我慢したが、我慢できなくなった。毎日ロビーで出会い、挨拶する関係になったビジネスマンは、パキスタンの元王族を名乗る怪しい人物だったが、背に腹は代えられず、相談してみた。すると、何日かかかるが請けあう、とのこと。そして期待通り、大型ショルダーバッグ一杯のビールが、どう見ても街のチンピラと思われる男の手で運ばれてきた。パキスタンとアフガンの国境、カイバル峠近くで密造しているとのこと。味や値段は忘れてしまったが、思いがけないレアものが味わえることにただただ感激ことを覚えている。

 同じイスラム国のバングラディッシュには、韓国人ビジネスマンが集まる闇レストランが、電気を暗くして酒を飲ませてくれた。深夜の酒提供が禁じられていたころの上海でも、国籍の違う3人組で、くたくたになるまで歩き回り、非合法営業の飲み屋を探し出したことがある。
 振り返ると、酒のためにずいぶんエネルギーを費やしてきた。バッカスの神の御加護に与れるかもしれない。

「食の本物志向」と「もがく老舗メーカー」の言葉狩り

Posted by Ikkey52 on 08.2015   0 comments   0 trackback
 日本にインスタント・コーヒー文化をもたらしたのは、高級感あるイメージ重視のテレビCMが印象深いネスカフェだった。ネスカフェの販売元ネスレ日本株式会社は、スイス企業の日本法人で、本社を神戸におく。コーヒーを飲もうとすれば喫茶店に行くしかなかったまだ貧しいころの日本で、インスタント・コーヒーは瞬く間に家庭や職場を席巻し、ネスカフェはその代名詞になった。しかし時代は巡った。本物志向のせいで、インスタント・コーヒーの市場は縮小。そこでネスレはインスタント・コーヒーという呼称をやめ、「ソリュブル(溶ける)・コーヒー」に刷新すると宣言したが、業界団体は「根本的に従来と変わらない」としてこの看板の掛け替えを認めなかった。だから「技術革新で新ジャンルを作った」とするネスレは業界団体を脱退までして、かえってネットメディアの攻撃対象になってしまった。

 商品の括りの呼称変更という意味で連想するのは味の素のケース。味の素株式会社のHPを見ると、味の素が化学調味料と呼ばれているのは、「昭和30年代にNHKの料理番組で、公共放送の立場上『味の素®』と商品名で呼べないため、一般名称として『化学調味料』が使われていた名残りです。昭和60年代以降は『うま味調味料』と呼ばれています」とある。http://www.ajinomoto.co.jp/sitemap/
 なるほど、NHK発祥の言葉だといわれれば、確かにそうだと膝を打つが、他方、30年近くも前に「うま味調味料」と呼ばれていたというのは、明らかに事実誤認だ。そもそも、戦前から日本人の台所に深く浸透していた味の素。自分の周囲の生活者は今でさえ一人の例外もなく「化学調味料」といわず、「それ一般」を「味の素」と呼びならわしているほどだからだ。なぜこんな見え透いたでたらめを自社HPで掲げているのだろう。身も蓋もない言い方をすれば、昭和60年代から味の素は「化学調味料」という言葉の抹殺をはかってきたのだ。

 動機は日本人の食の考え方が、ある時期から本物志向へと変化したことと関係している。さらに、「世界保健機関(WHO)の専門家委員会が出している報告書にグルタミン酸ナトリウム(化学調味料の主成分)の一日摂取許容量(ADI)が設定されていたのです。特に生まれて二カ月までの乳児には与えてはいけないとなっていたのです。これは味の素にとっては致命的なものでした」。http://www.lohasworld.jp/yomimono/msg.html

 WHOは許容量こそいまは設定していないようだが、天然の材料から出汁を取ることが本来のうま味に通じ、健康にも良い、という考え方がすっかり定着し、逆に「化学的」に造られたものを忌避する志向を拡大させた。
 「うま味調味料」と呼んでほしいというのは、そうした風潮に対する味の素側のせめてもの抵抗だったのだが、伝統の食文化からではなく先進科学から生まれた製品であることを、メーカー自身がかつてしつこいほど宣伝していたのは事実だ。にもかかわらず、ここにきてメーカーは、大手広告主の立場を利用して、「化学調味料」という言葉を使ったマスメディアに強い圧力をかけていると聞く。例えば、勉強会と称して自社の主張をメディアの営業マンや作り手に一方的に押し付けるようなこともやっているらしい。テレビ大阪はアニメ『美味しんぼ』の再放送で、「化学調味料」の「化学」という言葉を無音にしたという。自主規制を呼んだのだ。表現の自由に竿をさせないからといって、媒体に手を出すのは卑怯、姑息というものだ。実際、業界団体名で発行され、強制的勉強会で使われたらしい豪華なパンフを入手してみると、「うま味調味料と呼べ」という一方的主張に満ちており、大いに鼻白んだ。

 食の安全を巡る主張と主張は大いにぶつかって、最終的に消費者の利益になればいい。自分は、食の専門家や科学者から化学調味料に否定的な声が出ているのを知ってはいても、昔ながらに味の素を使う老舗ラーメン屋の味を、ときどき無性に懐かしくなり、出かけていく。東南アジアの国々では、土地のソウル・フードに日本人が想像している以上に味の素が使われているが、論争が終わっていないのだから、それを食べようと食べまいと消費者自身の選択の問題だ。
  食品をどう呼ぶかは、詰まるところ消費者の判断であり、マスメディアに言葉狩りの圧力をかけるようなえげつないやり方がばれてしまえば、結局メーカーの企業イメージを貶めてしまうのではないか。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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