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老活動家の忠誠心はいつ揺らいだか?… 映画『ディア ピョンヤン』の離れ業

Posted by Ikkey52 on 14.2014 映画・北朝鮮   0 comments   0 trackback
 大阪出身の在日コリアン女性監督、梁英姫(ヤン・ヨンヒ)のデビュー作となったドキュメンタリー映画『ディア ピョンヤン』に唸った。ひたすら自分の家族にだけカメラを向け続けた映像の蓄積。通底音になっているのは、いかにも浪速の庶民らしい楽天的な明るさで、愁嘆場ひとつない。下手をすれば、ありきたりのホームムービーに堕しかねない素材が、「祖国」に裏切られ引き裂かれた無辜の家族の哀切極まりない物語へとみごとに昇華されている。一貫して平明な語り口なのがいい。国際的な高評価も、むべなるかなだ。家族に対して母(オモニ)が示す海のように深い愛情が、絶妙な隠し味として効いていた。

 在日のマチ、大阪・生野区で暮らす、両親と未婚の末娘の三人家族。三人の国籍は北朝鮮で、父(アボジ)は元朝鮮総連専従活動家幹部。一家には1970年代の後期帰国事業で北に渡った3人の息子がいる。食卓では大阪弁と朝鮮語がユーモラスにちゃんぽんで飛び交う。ヨンヒ監督作品といえば以前、2012年公開の日本映画としてキネマ旬報ベスト・テン第1位に輝いた劇映画『かぞくのくに』をこのブログで論じている。『かぞくのくに』が、ヨンヒの次兄の一時帰国(病気療養目的)という特殊な事態を背景としたドラマだったのに対して、『ディア ピョンヤン』は、総連幹部を引退してもなお志操堅固な父の心境の変化が肝になっている。

 父は15歳で済州島から日本に渡ってきた。梁石日(ヤン・ソギル)の傑作小説『血と骨』の破天荒な主人公で、最後は北朝鮮で死ぬ金俊平もまた済州の人という設定だった。朝鮮半島の南西沖に浮かぶ済州島は、かつて流刑地だったため、古くから半島本土の人たちは島民を見下す風潮があった。日韓併合の当初、植民地朝鮮から日本への渡航は禁じられていたが、禁を破り海を渡った人たちが20万人もいたという。その大半は、差別と貧しさに耐えかねて出稼ぎ先を求める済州島人だったとされる。宗主国日本でも、同胞間の差別はなくならず、済州島出身者を長く苦しめた。戦後、済州島では島民が南北統一政府の樹立を求め、発足間もない韓国政府と対立、全島ゼネストや武装蜂起で抵抗したが、逆に大虐殺の報復を受ける。冷戦激化のなかで、済州島出身の在日の多くが朝鮮総連支持に走ったのは、そういった背景もあった。

 2001年秋、父はピョンヤンで盛大な喜寿祝いを開くが、そこで「この歳になっても将軍様に尽くし足りない」と、老いてますます盛んな忠誠心を口にする…。それから3年。ある晩ヨンヒから、兄たちを帰国させたことに後悔はないかと問われた父は、「行かさなくてもよかった」とためらいがちに漏らす。かつてなら絶対許さなかったヨンヒの国籍変更(北⇒韓国)さえも認める。その間、父の強固な忠誠心に小さなヒビを入れるどんな変化があったか。それは2002年の日朝首脳会談で北側が日本人拉致を認め謝罪したことだ。このビッグニュースが飛び込んできた直後、自分は友人である同年輩の総連中堅幹部に電話を入れたが、彼はほとんど言葉も出ないほど打ちのめされ、気の毒なほどだった。

 ヨンヒが両親とともに訪ねた長兄一家のアパートの豪華さは特筆しておきたい。広さもさることながらアップライトのピアノがある。長兄が相当高い身分に取り立てられている証拠だ。喜寿祝いの席で父の上着の胸をほとんど埋め尽くしていた勲章の数を思い起こす。偽物国家、北朝鮮の馬脚がのぞく場面もある。長兄の息子ウンシンはピョンヤン音楽舞踊大学付属校でトップ3に入るピアノの名手だというが、その演奏はペダルの使い方がひどくて、かなり拙い。北には、クラシック音楽のまともな指導者、教育者がいないという悲しい現実を浮き彫りにしていた。
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映画『かぞくのくに』に見る北朝鮮後期帰国事業の残酷

Posted by Ikkey52 on 04.2013 映画・北朝鮮   0 comments   0 trackback
 記憶のなかにある北朝鮮の首都ピョンヤンの夜は、チュチェ思想塔のてっぺんが赤く輝いているほかは、漆黒の闇が広がるばかりだ。中心部でも街灯はほとんど点いていなかった。現地では、全日程を通して3人の案内員に見張られていた。彼らの隙を突いたつもりで、入国当日の深夜に一人ホテルを抜け出した。ピョンヤン駅はホームさえ真っ暗だったが、不思議な時間帯の無言の混雑をしかと網膜に焼き付けた。尾行には気をつけて戻ったが、ばれていたらしい。翌日から夕食後、案内員たちによって、半ば強引な形でホテル地下のバーに引っ張りこまれるようになった。体のいい雪隠詰めだ。案内員とは名乗っても、彼らは北朝鮮国内防諜網の一端を担っているプロ。心を許すつもりはなかったが、酒の勢いで双方言いたいことをいい、遠慮ない質問を浴びせあううち、うちとけていった。
 
 Rと名乗るリーダー格の案内員は東京・池袋出身。いわゆる帰国者だった。親はかなりの財産家らしく、総連への献金を怠らなかったせいだろう、彼自身は佐官身分に昇進しピョンヤン市内の高層アパートを割り当てられていると言った。それでもかなり痩せている。食糧の配給事情について突っ込んで聞くと、とたんに歯切れが悪くなった。日焼けで浅黒い顔は、佐官クラスといえども援農に駆り出されていることを物語っていた。池袋界隈の賑わいに話が及ぶと、遠くを見つめるまなざしになった。
 
 1959年暮れから始まった在日朝鮮人の「北」への帰国事業で、1984年までに約9万人が海を渡った。もっとも、映画「キューポラのある街」で描かれたような「地上の楽園」幻想が信じられたのは、ごく初期の話。帰国希望者は帰国事業開始からわずか数年で激減する。新潟から乗り込んだ船内の悪臭から、この先何が待ち構えているのか、悟った人もいたという。帰国事業の後期は、「人身御供」を求める本国に対して、総連幹部らが忠誠心を示すために泣く泣く自らの子弟を送り込むという、いわば「自己責任による拉致」に近いものになっていった。日本で高校生活を送ったらしい案内員R氏も年齢から考えると後期帰国事業に乗った口だろう。
 
 第86回キネマ旬報ベストテンで日本映画1位に輝いた映画「かぞくのくに」では、まさに子供を帰国事業に差し出した在日コリアン一家の四半世紀後の苦悩が、淡々と描かれる。祖国に忠実な総連支部幹部の父、自宅で喫茶店を営み家計を支える母、朝鮮語の教師に飽き足らなさを感じる同居の娘という東京・下町の家族。一家には、16歳のとき「祖国」に帰国させた息子がいるが、その息子が監視付ながら25年ぶりに一時帰国してくる。病気治療が名目の特別な計らいだった。精密検査の結果、息子に脳腫瘍が確認され、今は自覚症状が出なくても、放置すれば命に関わることがわかる。外科手術とその後の入念な加療が必要だと診断され、父は当初3ヶ月とされた一時帰国のリミットを本国との交渉で半年に伸ばしてもらおうと考える。ところが、滞在わずか2週間で本国から召還命令が出される。何の理由も告げられずに…。
 
 監督は在日コリアン女性のヤン・ヨンヒ。自身が3人の兄を帰国事業に取られており、映画のストーリーは彼女の実体験と重なる。最も遅く帰国したヨンヒ監督の長兄はすでに死亡しているが、1972年に金日成60回目の誕生日の「プレゼント」として帰国を促された朝鮮大学校生200人のひとりだったという。病気治療で一時帰国が許されたのは三兄だそうだ。在日の「愛国的商工人」が苦悩の末に筆を執った『凍土の共和国』(1984年・亜紀書房)など三部作に出会って以来、北朝鮮には特別の関心を向けてきたが、北在住の日本人妻、いわゆる「おりこうさん妻」や、寺越事件の寺越武志のような対日カード以外に、一時帰国が許されたケースがあったとは、不勉強で全く知らなかった。
 
 北朝鮮という国は、悪人の集まりでは断じてない。しかし、自分の良心にしたがってものを言う自由は許されていない。映画の中で、「思考停止は楽だぞ」と力なく妹に笑いかける一時帰国者の兄の言葉に、かの国での人民の苦しみがリアルに凝縮されていた。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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