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トイレの新聞紙とレーニンの微笑

Posted by Ikkey52 on 26.2015 旅の記憶   0 comments   0 trackback
 旧ソ連時代に取材に行ったモスクワとサンクトペテルブルクを、新生ロシアの混乱期に、ドキュメンタリー番組の下調べで再訪する機会があった。文書や映像の保存に関しては、その徹底ぶりが伝説となってきたお国柄。同時に、度を越した官僚主義のせいで、それらのお宝が倉庫の肥やしになっていたのも有名だったが、旧秩序の崩壊にともない、状況は一変していると聞いたからだ。資料を掘り起こす旅には、取材行とは別の興奮もあった。

 厳めしい建物が並ぶモスクワ中心部を抜け出し、年季の入った小型車は郊外に向かっていた。ハンドルを握るのは車の持主で、コーディネーターをお願いしたドミトリー。モスクワ大学を出て科学アカデミーに籍を置くレッキとした若手学者だから、本来は食うに困るはずはない。だが、当時のロシアは天文学的なインフレが進行しており、完璧な日本語を武器に彼も生活防衛中だったのかもしれない。穏やかな好青年だった。

 2時間弱ほど走ってお目当ての映像アルヒーフ(保管)施設に着く。大病院のような建物だ。敷地の広さにドミトリーも驚く。暗い廊下には白衣姿の女性職員が行き交うのでますます病院めくが、35ミリフィルムを納める円形の重そうな缶を専用の縦長の運搬用具に幾層も載せて、運んでいる様子は映画会社の撮影所のようでもある。映像検索はカードで行う。カード閲覧室は、壁際にカードの入った抽斗が並び、中央は図書館のように机と椅子がおかれていたが、明らかに西側の映像関係者と思われるカジュアルな服装の若い人で一杯だった。革命期のニュース映像に狙いをつけてカードを何枚か選ぶ。それを眩しいほど金髪の、化粧も万全な美人職員に渡すと、スタインベック編集機を備えた別の小部屋で待機するよう指示され、やがてフィルムの入った数缶を運び込んでくれた。プレビューしてコピーが欲しい映像を指定して秒数換算で料金を支払う。翌日もう一度出向いて映像がコピーされた磁気テープを受け取る仕組みだった。

 動画がニュース映像となって流通するのは第一次世界大戦中だったとされる。とすれば、ロシア革命期を記録した動画はまごうことなき貴重品で、絶対数も限られている。二十世紀回顧ものなどに使わる映像は、たいていが一度はどこかでお目にかかっているもので、新鮮味がないのはそのせいもある。ところがくだんのアルヒーフは宝の山だった。未見の映像が溢れていた。赤の広場を歩きながら道行く人と歓談するにこやかなレーニンの映像を確保できたのは僥倖だった。映像そのものの著作権は切れていても、いまなら相当な蔵出し料を支払わされるかもしれない。当時は日本のアーカイブ映像と比べてその安さに驚いた。

 その旅では、動画だけでなく写真も探した。小さな教会では、建物の老朽ぶりをまず見せられ、写真のコビーは提供するから、修理費の一部としていくらかでもカンパが欲しいと頼まれた。そういうとき、ドミトリーは多少形式ばった書類をつくり、私にサインさせた。料金とともに書類を渡すと、相手は安心するようだった。誰しも金に困っていた。公共のものを売って金に換える輩もいた。契約書風の書式は司祭の身の潔白の証明になったのだろう。
 
 そういえば、例の大病院のような映像アルヒーフでトイレに入ると、トイレットペーパーの代わりに新聞紙が切っておいてあった。金髪美人の職員を思い浮かべ、同情を禁じ得なかった。モスクワへの帰り道、ドミトリーを促して駆け込んだ、煤けた大衆食堂のボルシチのうまさと共に、映像アルヒーフで垣間見た新聞紙の印象はいまも鮮烈だ。
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タクシードライバーが語るしたたかな沖縄

Posted by Ikkey52 on 25.2014 旅の記憶   0 comments   0 trackback
 沖縄県名護市のタクシードライバー数人から刺激的な話を聴く機会があった。一部だが脚色なしに再現してみたい。

 「沖縄県の知事が百条委員会に引っ張り出されたりして、大騒ぎの辺野古問題だけど、(滑走路建設を)自分は悪いことだとは思わないよ。地元に金が落ちるのはいいことでしょ。辺野古の漁師たちはとっくに漁業権を売り払っているから、反対したって始まらないさ。辺野古には昔は結構大きな歓楽街があったんだよ。キャンプ・シュワブの米兵相手にね。いまでこそ商売はダメになったけど、値上がりした土地を売って、ひと息ついている人が多いよ。
 
 お客さんは知らないだろうけど、辺野古の新しい基地のゲートはもうほとんど出来てるんだよ。名護の山の中にいくつもトンネルを掘って新しい道路が完成したよね。建設を急いだのは、滑走路用の埋め立て土砂を運ぶためさ。トラックの運転手が足りなくなっている。一日1万5000円とか2万とか景気のいい話も聞くよ。それがこれから何年も続くんだから、名護の市長が反対する理由がわからないな。反対派が1月の選挙で勝ったのは、滑走路の建設に反対の人が多かったというより、自民系候補選びの遅れがすべてさ。まるで浸透していなかった。タクシーに乗ってるとよくわかったよ。
 
 そういえば、民主党にはがっかりさせられたな。特に鳩山さんね。『最低でも県外』って…。沖縄の人同士の喧嘩を煽るような真似をして。今は民主党を飛び出したけど、小沢さんもね。こっそり辺野古に広大な土地を買ってるって、地元では知らない人はいないよ。政治家じゃないけど、所ジョージの土地もかなりな広さらしい。ほら、沖縄の新聞を観ると『軍用地買います』ってたくさん載ってるでしょ。広い軍用地を貸せば入る地代も大きいってこと。地代で潤ってる人、珍しくもないよ。そんなこと本土の新聞には出ないだろうがね。
 
 基地だらけで不幸な沖縄、可哀そうな沖縄ってイメージ、お客さんも持ってるでしょ。でも、本当に暮らしにくい所なら、県の人口が増えるわけがない。出生率が高いわけね。子育てしやすいのさ。福島県から家族を避難させた人もたくさんいるよ。一家あげて移住してきた家庭も多い。安全なのよ、沖縄は。原発が一基もないからね。放射能汚染、考えただけでもぞっとするよ。
 
 名護市内も土地は上がる一方だ。25年前に家を建てるための土地を買っておいたのは正解さ。当時坪5万で百坪。あんたになら千坪売ろう、といわれたけど、まさかね。買った翌月に坪単価は倍になり、いまは25万かな。友達は羨ましがってるよ。市内の開発は沖縄サミットのあとも続いて、町並み自体がじわっと膨らんだんだ。国道の海側はもともと埋立地でね、子供のころはすぐ漁港になっていた。思い出すのはイルカ漁だな。イルカの群れを湾のなかに追い込んで、銛で突くのさ。海はイルカの血で真っ赤になっていた。水揚げがはじまると近所の大人はみんな手伝いに出てね。おふくろはいつもたっぷり魚肉のおすそ分けをもらってきたな。だけど、いまは美ら海水族館でイルカがショーをやってるでしょ。あれ見ると、昔はずいぶん可哀そうなことをやったなって、申し訳なく思うよ。
 
 水族館といえば、あそこから遠くない古宇利島ね。観光地として売り出し中だけど、ユタがいまでもいるんだよ。ユタって霊媒師の婆さんのことさ。秋篠宮さんがやってきてユタに拝んでもらったら男の子を授かったって。あれ、お客さん、知らないの。有名だよ、この話も」

 そこには私の知らない沖縄があった。古くは琉球処分、本土で味わう謂れない差別、地形が一変するような艦砲射撃の地獄、戦後長く続いたアメリカによる施政権支配、返還後も残り続けた広大な米軍用地、耳をつんざく騒音、米兵の狼藉、度重なる米軍機墜落、安保条約で制限された警察権…。そんな負の符号の陰で、沖縄は、他のどの県よりも計算高く、したたかに、図太く、やってきているのではないか。そんな気がしきりにした。

零下15度のハーフ・ムーン

Posted by Ikkey52 on 05.2014 旅の記憶   0 comments   0 trackback
 友がひとり、星になった。身体は9回もの手術でぼろぼろだった。それでも節分の日の朝まで生きながらえた。死因は肝硬変。発症は9年前だから、よくもまあ頑張った。新しい星の戒名は「随流院」だが、俗名は和哉といった。

 私が東京ではじめて出会ったころの和哉は、フォークギターを片時も離さない小兵の大学生だった。専攻は写真学だったが、彼がカメラを構えていた記憶はない。雑誌の投稿で音楽仲間を募ったら1人しか手があらず、結局その1人とフォークデュオをつくった。宮崎出身で某音大声楽科に通うJ子ののびやかなソプラノと、表現力豊かな和哉の歌唱の取り合わせは天の配剤を思わるものがあり、練習を耳にした誰もが絶賛していったが、思い返せばデュオの活動期間はそれほど長くなかった。解散の原因はひとえに、和哉がリーダーとしての立場を忘れ、相方に一方的に思いを寄せたこと。よくある話だが、J子の拒否感の強さに自分も含め周囲は面食らった記憶がある。和哉のほうが2歳年下だったから子供っぽくみえたのか、それとも彼女が晩熟(おくて)だったのか。

 和哉は、国内4番目の大河、天塩川に沿った北海道北部の酷寒の町で、老舗の酒屋を営む家に生まれた。男三人兄弟の真ん中で、兄は大企業のエンジニア。弟が医大に進学した時点で、それほどの葛藤もなく、家業を継ぐという運命を受け入れた。単位を確実に取って大学を卒業し、都内で就職先も決めたまでは根の真面目な彼らしいが、意外にも、気ままなバイト生活を選んだのは、家業を継ぐなら慌てる必要はないし、大都会の勤め人は自分に合いそうもない、と悟っていたからだろう。モラトリアムにも飽きて故郷に帰ると、やはり家業の関係で地元に残らざるを得なかった中高の同級生たちが、待ち構えていたかのように和哉を暖かく迎えてくれた。過疎のすすむ地元を何とかしようという町おこし運動に彼も遅まきながら加わり、新しい居場所を得た。

 故郷の仲間たちの結婚式に和哉の歌とギターは欠かせなかった。なのに自分の結婚となると和哉はシャイな一面を見せる。傍(はた)からはもどかしかった。友人同士のネットワークでもたらされる今風の縁談ならいくらでもあったが、なぜか踏み込まない。和哉が生来持っていた異性のストライクゾーンはかなり狭かったかもしれない。気がつけば時が経ち、地元仲間には仕事以外に家族の比重が大きくなった。和哉は孤独感を深めた。大物のイトウを狙う川釣りに目覚めたのもそのころか。父親が倒れ、店の男手が彼しかいなくなると、次第に出不精になり、隣町境の橋さえ渡らなくなった。時折私にかかってくる夜中の電話のむこうには、正体不明になるまで酒に呑まれた和哉がいた。彼が独身を通したことについて、まさかJ子に心を残し続けていたのでは、という者もいたが、そこまで純でも馬鹿でもなかったはずだ。

 10年ほど前、J子が一人息子の大学進学を機に上京してきた。聞けば郷里の宮崎で食品加工会社を経営する男の妻に納まっているとのこと。その夜は昔馴染みが数人集まってカラオケに興じた。もちろん和哉はいない。どちらかといえば少女趣味に見えたJ子は、田舎のおばさんらしい押しの強さを身に着けていたが、美声は健在だった。以来、カラオケで再会した連中には、J子から年に一、二回、気まぐれに近況を伝えるメールが入った。それだけのことなのに、自分はなんとなく気がとがめ、和哉にあえて伝えなかった。

 「息子が慢性の脳疾患に苦しみ、全うな就職ができそうもない…」。珍しく本音を吐露する深刻な連絡をしてきて以降、J子から私へのメールはピタリと途絶えた。故郷でJ子は、必ずしも幸せではないと直感した。いまさら彼女に和哉の死を知らせることに、何の意味もなく、躊躇はしたが、思い直し、あえてそっけないメールを打った。

 通夜の禅寺に集まったのは、60人、いやもっといただろう。花輪がぐるりと周囲の壁を埋め、しかも御義理らしき花がほとんど見当たらなかった。妻も子もなく逝った五十男への別れとしては、恥ずかしいものではなかった。「枯木も山」のつもりで、はるばる出かけたが、和哉が周囲に愛されていたとわかっただけでも、報われるものがあった。列車の時間が迫っていたので、式次第終了まで居られない。葬儀委員長を買って出た和哉の親友の、嗚咽混じりの挨拶に心残して寺を後にした。

 戸外では足元の雪がキュッと鳴き、鼻毛が凍る感覚があったので、零下15度前後とわかる。息弾ませて駅に着き振り返ると、街灯に浮かぶ駅前商店街は、和也が主(あるじ)だった酒屋を含めてまるで昭和のままだ。30度に設定されている待合室のエアコンの実温度表示は12度を指したまま動かない。JR職員の対応時間は午後4時でとっくに終わり、文句を言う先もない。それでも、居合わせた男女の地元高校生たちは慣れたもので燥(はしゃ)いでいる。ふと、つげ義春の『やなぎや主人』のラストのように、老いた和哉とJ子の夫婦が北国の古びた酒屋を背景に寄り添う、セピア色のスナップ写真が脳裏をよぎって消えた。
 入線時間が迫り、吹きさらしのホームに立つが、さっぱり列車は現れなかった。見上げた空には半月が冷え冷えと輝く。寒さ凌ぎにポケットからスマホを何度か取り出し、J子からの反応を期待したが、手ごたえはない。それでいい、とあらためて思いながら、列車の来る方向の闇に目を凝らした。

オキナワ2013…基地、冤罪、豚の首

Posted by Ikkey52 on 28.2013 旅の記憶   0 comments   0 trackback
 沖縄自動車道を那覇から北上する。土砂降りの雨。その日は快晴の東京から飛んできたものの、前日、札幌から新千歳までの移動は大雪で、高速バスもJRも大幅遅れ。ようやくの思いで脱出してきた身としては、雨さえ妙にうれしい。
 「沖縄の高速道路のアスファルトには、貝殻が混ぜ込んであるので滑りやすい。雨の日は事故に注意しろ」。以前、そんな忠告を受けたことがあった。疑わしい話ではあるが、一応、レンタカーの運転に集中する。前後と対向車は、「軽」や1000㏄前後の小型車が大半を占める。沖縄の特色だろう。心の中の記憶が、少しずつ解凍し始める…。

 人生初の沖縄行きは、20代のころの取材。本土復帰からまだ10年を経ていない那覇には、モノレールも高速道路も、むろんない。バス以外の公共交通機関を持たない街だったから、幹線道路の渋滞は、想像を絶した。
学生時代の一時期、横田基地の街、福生に暮らしたことがあって、米軍ベース周辺特有の雰囲気には臆さなかったが、横田と那覇では意味が異なる。そうした環境にウチナンチュー(琉球人民)を置いたのは誰か。北海道外を「内地」と呼ぶ大人たちを見て育った自分も、彼らからすれば、単なるヤマトンチューでしかない。内側にヒリつくようなものが滞在中ずっとあった。あちこちに、ステーキ・ハウスの看板が目立ち、なぜか、そーきそばやゴーヤチャンプルー、やぎ汁の記憶はない。以来、こんなに沖縄に来る機会が多いとは全く予想しなかった。

 ノモンハンで、ガダルカナル島で、アッツ島で、激戦を続けた日本陸軍最強部隊のひとつ、旭川師団の兵士たちが、沖縄戦でも多く命を落としたことはあまり知られていない。戦後の混乱期、北見で起きた2件の強盗殺人事件で有罪判決を受け、無期懲役刑に服したものの、獄中から冤罪を訴え、仮釈放中に再審無罪を勝ち取った梅田義光さんは沖縄戦の生き残りだ。後継者を戦争に奪われた家族の多い中で、奇跡的に生還した梅田青年に対する家族、近隣の期待はいかほどだったか。ずさんな事実認定が、朴訥そのものの若者の人生を狂わせた。梅田さんにむごい拷問を加えた刑事Aに当たったことがある。「ひかれ者の小唄を聞いた」などと、元特高のAは、当時でも梅田犯行説を微塵も疑っていなかった。その思い込みの強さに、ぞっとした記憶がある。生きて郷里に戻れなかった梅田さんの戦友たちの名は、糸満市の摩文仁の丘に設けられた「平和の礎(いしじ)」にくっきりと彫り込まれている。冤罪で思い出すのは、沖縄出身の作家、伊佐千尋の大宅ノンフィクション賞受賞作『逆転』。伊佐本人がアメリカ施政権下で陪審員を務めた稀有な経験を綴った。

 嘉手納の展望台から見たB‐52爆撃機の巨大な機影。海兵隊の拠点、普天間基地内を案内してくれた金髪の美人軍曹。那覇の第一牧志公設市場の精肉店に並ぶ豚の首から、強烈なアジア臭を感じたことなど、こもごも思い出される。気づくと雨は小降りに変わっていた。高速道路が尽き、視界が開けたと思うと、穏やかに凪ぐ名護の湾が迫ってきた。
  

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Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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