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「円」を切り口にした帝国日本の青年期論…『大陸に渡った円の興亡 上』

Posted by Ikkey52 on 12.2017 近現代史   0 comments   0 trackback
 トランプ大統領の登場で、世界が慌てふためく理由はいくつもある。その最大のものは、市場開放、規制緩和、マーケット重視というアメリカの対外政策の基本が、どうなってしまうのかという不安だ。なにしろ、「強いドル」を背景にアメリカは、1898年に米西戦争に勝ち、フィリピンとグアムを取り、ハワイまで併合し、欧州列強が蚕食していた中国にも乗り出したころ以来、一貫して120年もこの対外戦略を続けてきたのだ。 

アメリカが中国進出に名乗りを上げた当時の日本は、試練続きの外交と、その延長線上にある対外戦争に、国家の存亡をいやおうなく賭していたが、払った犠牲に比べて見返りが少なかった日露戦争のトラの子の代償、つまり旅順、大連と長春以南の満鉄付属地の権利を、どうやって最大限に膨らませるかに腐心していた。むろん、中国本土の利権拡大についても、欧州列強に後れを取りたくない。しかし国庫は空っぽ、海外には戦費調達に使った外債の巨額なツケが溜まっていた。

「ドルを持って銃弾に代える」アメリカのドル外交と大陸でどう渡り合えばいいのか。日本の政治家、財政担当者たちは悩みぬく。朝鮮はすでに円経済圏に入っていた。満洲の経営にとっても「円」こそ武器なのだが、その使い方を巡って、正金銀行=銀建て派と大陸積極論の金建て派の根深い対立があった。どういうことなのか。

 日本は明治4年、早々と金本位制を採用した。東洋諸国の多くは中国も含め銀本位制を採用していた。貨幣価値の物差しはメキシコ産の銀だ。それでは貿易に不便なので、日本は円銀を認めることにし、事実上、金と銀の複本位制をとった。世界の趨勢が金本位制に傾くと、金と銀の交換価値の差が大きくなる。日本金貨が海外に流出し退蔵されたため、日本は銀本位制になりかけた。日清戦争の賠償金を英国ポンドでもらうことによって、明治30年、やっと金本位制に回帰することができた。満洲経営が自国問題になった段階でも、現地は銀を基軸とした諸通貨の流通が続いており、金をもとにした幣制統一は容易でない。日本の金準備高も情けないレベルにあった。

 辛亥革命後の混乱期、北京政府は軍費調達などから恒常的な予算不足に陥り、各国からの借款漬けに陥るが、幣制の不統一が混乱に拍車をかけているのは誰の目にも明らかだった。日本は様々な金融財政専門家を送り込み、北京政府要人と局面打開策を練るが、そもそも日本の大陸政策として金建て派と銀建て派の対立は解消していない。しばらく迷走が続いた…。

 それにつけても、多田井喜生の大著、『大陸に渡った円の興亡』は精緻な織物のようだ。円を切り口にした“帝国日本の青年期”論だが、得るところが実に大きい。脇役として迎えた第一次大戦と火事場泥棒的な参戦が、苦しかった日本の懐事情の改善にどれほど大きく貢献したか、あらためて思い知らされた。
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現職総理・大隈重信の中国観

Posted by Ikkey52 on 22.2017 近現代史   0 comments   0 trackback
 私事で恐縮だが、母方の祖母から生前、「先祖が大隈重信にお世話になった」と聞いていた。祖母の祖父にあたる人物は幕末の佐賀に生まれたが、親を早く亡くし、苦しい家計のなかで弟の学資と進学先に悩んでいたところ、藩校で机を並べた竹馬の友、大隈らの金銭支援と強い薦めを受け、福沢諭吉の私塾で学ばせたという。

 厳つい表情の大隈像に睥睨されながら、キャンパスを闊歩する軽佻浮薄な学生たちの群れに自分が混じったとき、祖母は「大隈さんに恩を返した」という感情を持ったらしい。それでも、大隈重信という人物の実像について、自分はどれほども知らないで来た。祥伝社版『大隈重信 中国人を大いに論ず』は、大隈が二度目の首相在任中に書き上げたものの現代語訳だ。底本はのちの西武グループ創始者、堤康次郎がまだ無名時代に手掛けた出版事業で世に出した『日支民族性論』。大隈は出版を大いに喜んだらしいが、一発当てようした堤の目論見は無残に外れ、利益は出なかった。

 一読してわかるのは、大隈という人の教養深さだ。武家の出だから漢籍に詳しいのは当然として、カントの哲学も語るし、ギリシャ、ローマから始まるヨーロッパ史もしっかり踏まえている。日本史の解釈も贔屓の引き倒しに終わらず客観的だ。大隈は山形有朋と同年者だが、明治日本の元勲といわれる政治家のなかで、これだけ広範な学識を兼ね備えた人物は多くないのではないか。それはおそらく、二度目の内閣を組織するまで、いったん政界から身を引いて、教育者としての顔を持ったことが大きかったのではないか。

 肝心の中国人論については、解説にあたった倉山満が「現代人が読めば、『ネトウヨ』と断じるに違いない中身」と予防線をあらかじめ張っているが、そんな必要はないと感じた。中国が中国という一つの国家として、世界最古の文明を引き継ぎながら、「目覚めた獅子」として今日に及んでいる、という解釈は、どう見ても怪しいからだ。例えば日中友好に尽力した鄧小平や胡耀邦と、反日教育を始めた江沢民、覇権主義丸出しの習近平は同じ国を支配する同じ党の指導者だが、地続き感はまるで薄い。この間、日本の外交政策の機軸はほとんど変わっていないのだから、なおのこと、中国側の政治的一貫性には疑問が残る。

 「支那の革命は王朝が交代するだけ。孔子の説く『礼』などは後代に行くほど形式的で装飾的。古代から周囲を野蛮とみなすが、実は何度も周辺民族に征服されてきた。『朝貢』と威張るが実態は貿易。宗教心を欠き、文は尊ぶが武を卑しむ。刑法はあるが民法がない」など、指摘は分かりやすく、今日の中国共産党政権にも当てはまるところが思い浮かぶ。

 ただ大隈は、中国を批判し貶めているだけではない。「このように論じると、日本と支那の両国民の間には心理的状況に大きな相違があるように思われるが、実際はそうではない。根本のところにおいて両者の性質は近く、のちの習慣によって遠くなったに過ぎない」。日本人のなかに「支那を取ってしまえ」と言う者がいるが、これこそ「誤りも甚だしい」。「あの大国は、けっして他国によって征服されることはない」。「ヨーロッパ全体の規模に近い大民族を、一国の力で統御しようなどというのは、まったくもって空想に他ならない」。つまり、日本が示すべき態度は「あくまで平和主義である」。自ら興した早稲田の学舎に多くの中国人留学生を受け入れていたのは、いうまでもない。

 本書執筆時は、日英同盟の関係で第一次大戦に形ばかり参戦し、遼東半島のドイツ権益を得た時期だった。スターリンなら一国丸ごと掠め取るような火事場泥棒をしていただろう。とかく評判の悪い対華二十一か条はそのドイツ権益の肩代わりを中国側の内々の意見も入れた上で求めたものに過ぎず、あの民本主義の吉野作造にして「最小限の要求」と見るようなものだったが、国際的な反日キャンペーンに利用された。その交渉責任者だったことが、宰相としての大隈の評価を今日まで曇らせてきた面は否定できない。

 大隈が慶応義塾大で行った講演の中身が付録のように加えられている。明治新政府で大隈のステップボードは大久保利通の引き立てだったが、若き日の大隈は、福沢諭吉を隣藩出身の大局観に優れた天才として仰ぎ見ていた。一時不仲の時代があったが、その畏敬の念は総理になっても変わらず、最後は「諭吉翁の心を心とせよ」と慶大生たちに語りかけている。

百年品質保証の満州国論~ある米国人ジャーナリストの主張

Posted by Ikkey52 on 29.2016 近現代史   0 comments   0 trackback
 近現代史の中で、多くの人が日本の恥と考える出来事はいくつもある。なかでも極めつけは対支二十一か条要求かもしれない。「ここまで恥知らずな弱い者いじめはなかった…」と。少なくとも自分は長いことそう捉えてきた。

 ところが、事実は違っていた。二十一か条は中国側から持ち出されたもので、「そこまで譲るから、日本は袁世凱を大総統として承認してくれ」という秘密提案だった。何しろ、今日の中台両岸が一致して国父とあがめる孫文の指摘が残っているのだ(『孫文全集 第二編』)。こんな決定打、なぜ戦後も隠されてきたのか。

 その孫文の親友として、新国家、中華民国建設に協力し、あるときは知恵袋を務め、あるときは諸外国との交渉代理人となって、実に32年もの時間を中国に捧げたアメリカ人がいた。ジョージ・ブロンソン・リーだ。リーはもともとエンジニアとして出発したが、米西戦争にジャーナリストとして特派された体験、米陸軍情報将校として第一次大戦に従軍した経験が、彼を公平無比な世界観の持ち主にした。祖国アメリカさえ贔屓目で見ていない。

 リーは孫文の死後、満州国が建国されると、乞われて顧問に就任する。満州族が満州に国を建てるのは当然、と考えたからだ。孫文が率いた辛亥革命で倒れた清朝は、満州族が万里の長城を越えて南下し、漢族を支配した政権だった。皇帝は八旗と呼ばれる満州族の武士階級と漢族の結婚を禁じ、満州の地への漢族の立ち入りも厳禁した。満州国建国当時、満州には多数の漢族がいたが、したがってその多くは、清朝滅亡後の長城以南の混乱を逃れて越境してきた者たちだった。

 リーは説く。ハワイに日系人が多数住むからといってそこが日本でなく、カナダのケベックにフランス系が多数住むからといってそこがフランスではないように、満州国建国時の版図に漢族が多数住むからといってそこは中国のものではないと。

 満州国といえば、歴史教科書に必ず登場するのがリットン調査団。リーはその本質を、国際聯盟加盟国のうち欧州列強による中国利権確保策謀でしかないと見做す。未加盟国アメリカの同調も同じ狙いによる。調査団は、満州国建国を、不戦条約及び9カ国条約違反と断じたが、リーは真っ向から反論した。

 それまでの満州は、張学良らが群雄割拠する無主の地であって、しかも人民は軍閥による過酷な仕打ちで抑圧されていた。抑圧者の排除は不戦条約でいう国家間の紛争ではない。また、満州に対して日本は、日清、日露両戦争後の講和で得た正当な権利があり、その権利のうえに巨額な投資を行ってきた。だから、リットン調査団さえも、そうした日本の満州利権に対する防衛努力の正当性は認めざるを得なかった。

 80年前にリーが著した『満州国建国の正当性を弁護する』の語り口はひどく冷静で観察の対象は広範だ。70年前の東京裁判に証拠申請されたが、却下されている。採用されていたら、敗戦国日本を裁く戦勝国側の根本論拠が崩れていたかもしれない。中国の人口・食料問題、アメリカの当時の対中輸出の多くが実は日本の対米輸出に依存していたことなど、数字を引いて語る。出版から90年たってもおそらく陳腐化しそうもない内容に、あらためて驚かされる。

「尼港」に報復した日本人海賊

Posted by Ikkey52 on 19.2016 近現代史   0 comments   0 trackback
 「正史あるところ、裏史あり」だと思っている。特に人々の記憶から消えかけた裏史を再発見し、紐解くときのスリルはたまらない。ロシア革命後の混乱期、アムール川河口の町、ニコラエフスクで多数の在留邦人と日本軍の残留部隊がパルチザン部隊に捕まり、ほぼ全員が虐殺された尼港事件は、日本中の人々の涙を絞り、あるいは怒りを沸き立たせた。この事件の裏史には、義憤に駆られた1人の日本人の私的な復讐劇が刻まれていた。

 小樽市と境界を接する札幌市手稲区の国道沿い。今は手稲山の山麓に沿ってごく普通の住宅街が伸びているあたりに、明治中期から終戦前まで光風館という大規模な温泉施設があった。高松宮妃がまだ徳川慶喜の孫姫だった独身時代、ひと夏を過ごしたというから、格式が偲ばれる。この光風館には前代未聞の大捕物の逸話が伝わっていた。 

 偽名でひと月も長逗留していた男の名は江連力一郎。愛人の芸者、小梅も一緒だった。江連は北の海を荒らした海賊の頭目として逃亡中の身だった。尼港事件で江連は、生死を誓った刎頚の友、松本源八郎を亡くしている。現地守備隊にいた松本は捕虜になってからも居留民をかばい、立派な最期だったと伝えられる。大正11年(1922)、神戸で汽船(780トン)を借り受けた江連は、「オホーツク海に砂金採取に行く」と言葉巧みに60人の乗組員を確保した。そして船は小樽から樺太北西部の港に入る。

 そこで突如江連は、乗組員全員を甲板に集め、ピストルをちらつつつ真の航海目的は尼港事件の仇討にあると明かす。ついに、江連の船はニコラエフスクや樺太北西岸を荒らして、ロシア船3隻と積荷を奪い、捕虜にしたロシア船乗組員計17人全員をピストルや日本刀で殺害。小樽で略奪品を金に換え、乗組員全員に分配したうえ解散させた。

 ただし、異説もある。裁判記録では、江連船の出港は、あくまで砂金鉱区の確保を狙ったもので、樺太で軍から供与を受けるはずだった武器が手に入らないので、やむなく航海目的を変更。邦人のニコラエフスク脱出を手伝おうと現地入りしたものの、乗船希望者はすでにない、という情けない話になり、海賊行為はその帰路の犯行とされている(小泉輝三朗『大正犯罪史正談』)。砂金掘りだというから、大阪の日本興商という会社が5万円を拠出した、という説の方に信ぴょう性がありそうだ。海賊行為の足がついたのは大罪に怯えた乗組員の自首からだったことはいずれにせよ間違いない。 

 光風館潜伏中の江連は目立ち過ぎた。「朝は羽織姿で散歩、夜は朗々と詩吟を吟じていたのでは、田舎町で俺はここにいるぞと宣伝をしているようなものである」(郷土誌「ていね」第28号)。江連逮捕のため警官が包囲網を敷いたが、迂闊には手が出せない。茨城出身で明大中退後に入隊し陸軍軍曹だった江連は、剣道五段、柔道五段、空手四段、その上ピストルの名手という猛者である。

 逃亡の終わりはあっけなかった。和服、雪駄履きで最寄駅近くに降りてきた江連には追っ手の足音まで聞こえたろう。駅前旅館で水を所望、出てきたところを、北海道警察部の岩田総一郎が名乗り出、江連を誰何した。岩田も柔道五段、剣道三段の名の知れた警部。郷土誌「ていね」の講談調を信じれば、江連は「貴方が岩田さんですか。貴方の手に掛かるのなら本望です」と微笑しながら、ピストルを差し出し、素直に縛に就いた。

 結局、江連には懲役12年の刑が確定したが、玄洋社系の重鎮らが刑軽減の嘆願を繰り広げたことに加え、模範囚で恩赦も重なったことから5年で出所。後に満蒙開拓団に加わるべく渡満したとされるが、その後の消息はわかっていない。山中に金鉱山があった関係で、手稲は田舎町に不釣り合いな色街があった。昭和15年に料亭「みどり」に東京・柳橋から流れてきた芸者、小春は、江連と愛人の小梅の間に生まれた娘だったことが地元古老の証言でわかっている。

クラウゼヴィッツと昭和の戦争

Posted by Ikkey52 on 08.2016 近現代史   0 comments   0 trackback
 「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」。
プロシア時代の将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツのあまりにも有名な『戦争論』の一節だ。では、いざ戦争というとき、政治家および将軍にとって、もっとも重要な判断は何か。「求めることのできないものを、その戦争において求めたり、押し付けたりしてはならない。これこそすべての戦略問題中の第一義的な、もっとも包括的な問題である」とクラウゼヴィッツは説く。

 明治新政府が誕生して以来、日本が交戦当事者となった対外戦争を考えてみる。国際的、国内的な諸事情から、政府が勝手に「事変」と言い換え、あるいは「事件」と呼んで矮小化を図ったものもあれば、大義名分あり、と見てストレートに「出兵」と表現したケースもある。それらも実態としては戦争に違いない。クラウゼヴィッツならどう評価したのか。

 落第点間違いなしなのは、昭和20年8月15日に終わった先の戦争だろう。始点は満州事変と見るのが妥当か。近代の満州がある種の無主物として列強の草刈り場になっていたことは、明治中期、ロシアに占領されていたことからもわかる。昭和初期の情勢も、軍閥は跋扈していたが、中華民国の支配が及んでいたわけではない。そこに日本は清朝の廃帝を担ぎ出して、正統性を装った傀儡政権を建てた。相当にお行儀が悪く、ある意味火事場泥棒的で、五族協和もお題目に終わったが、帝国主義の風が吹く当時の国際感覚からは、明白なアウトとまでは言えなかった。クラウゼヴィッツなら、そこでやめておけ、と釘を刺しただろう。政治の継続としてみれば、成果は余りあるもので、それ以上を求めてはいけなかった。

 満州国成立後、昭和天皇が日本軍に万里の長城からの南下を禁じたのも示唆的だ。その禁を破ったのは関東軍だが、もうひとつの不幸は、国際条約である北京議定書に基づき日本軍が米英仏伊の各国派遣軍とともに北京郊外に合法的に駐屯していたことだ。関東軍と支那派遣軍との競争心などもあって大陸全体への戦線拡大に歯止めが利かなくなる。戦争は別手段の政治なのだが、本来の政治(外交)にさっぱり戻りきれない。

 日中戦争の拡大は、アメリカを刺激する。石油で日本に圧力をかけた。岩瀬昇の『日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったのか』によると、この間、日本陸軍は学者や石油専門家を集めて、露蒙国境や満州南部での油兆地探査を必死で行っている。ただし、油兆が見つかっても、油田からまとまった量の原油が産出されるまで、相当な時間がかかる。すでに軍艦を動かし、戦車を走らせている国の戦略の無さに呆れる。

 国民革命軍を深追いし、日本軍が仏印に至ると、日本はアメリカから石油供給を完全に断たれ、アメリカを敵として戦端を開くしか選択肢がなくなる。石油というエネルギー源だけを考えれば確かに自存自衛の戦争だが、侵略を自己目的化したような日中戦争をやめれば、アメリカとの角逐は一気に小さくなる。小さな島国に過ぎない日本が、巨大な中国を意のままに操ろうとするのは、クラウゼヴィッツいうところの「求めることのできないもの」ではないか。

 そもそもアメリカ世論は、国民大半のルーツであるヨーロッパ諸国がナチスに蹂躙されようと、参戦には二の足を踏むほど戦争には慎重だった。まして、イギリス、フランス、オランダのアジア植民地が日本に侵略されても、アメリカ国民が立ち上がる動機には全くならない。参戦による戦争特需が欲しいルーズベルトからみれば、、たった一撃で世論を変え、対日参戦へと沸騰させた真珠湾攻撃はまさに天佑だったろう。
 米政府からの最後通牒になったハル・ノートが、日本軍に対し無条件撤退を求めた「中国」。その「中国」の範囲に、満州国が含まれるか否かは微妙だったが、上記と同じ理屈で、中国から撤退した日本が満州国からは手を引かなかったからといって、アメリカが参戦したとは到底考えられない。
 それにしても日露戦争前には、日本の軍事学徒のバイブルになっていたクラウゼヴィッツの精神が、昭和になってなぜ顧みられなくなったのか、どんな力学がはたらいたのか。
  

プロフィール

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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