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芳子の娘 多喜二の息子

Posted by Ikkey52 on 24.2015 近現代史   0 comments   0 trackback
 清朝王族の王女として生まれ、日本の大陸浪人、川島浪速の養女となって日本で教育を受けた川島芳子は、戦前戦中期、日本軍部の大陸進出の陰で暗躍を続けた。一時は東洋のマタハリ、満洲のジャンヌ・ダルクとも謳われマスコミの寵児となった芳子も、戦後間もなく国民政府に拘束され、祖国を裏切った漢奸として銃殺刑に処されたと伝えられる。ほどなくして、処刑者の替え玉説がくすぶり始めた。別人として第二の人生を全うしたという話がまことしやかに語られ、ついには芳子の娘を名乗る人物さえ日本のテレビ番組に登場した。しかし、その後の論調の推移をみる限り、身代わり処刑説の分は必ずしも良くない。

 妙な取材に携わったことがある。「小林多喜二の息子だという人物が中国で名乗りを上げた」というのだ。日本で最も著名なプロレタリア作家にして、拷問死という悲惨な最期を遂げた人物だけに評伝や研究も多いが、恋人はいても、妻子がなかったことに争いはない。それが覆るとは信じがたいが、とりあえず真偽を確かめてみよう、となった。

 天安門事件直前の中国は、今日に至る経済発展の種こそ蒔かれていたものの、全体としては電話さえ回線不足で繋がり難いような、そんな人民服と自転車の国だった。もちろん中国のしかるべき機関の招待状なしに、外国のジャーナリストが取材目的で入国することは不可能だ。四川省の田舎に住むという「多喜二の息子」を直に訪ね取材するのは諦めるしかなかった。

 取材経緯は略すが、結局、「多喜二の息子」を電話口に出すことには成功した。その日のために、あらかじめ多喜二の詳細な年譜を用意していたので、彼の話に矛盾点を見つけるのに時間はかからなかった。仮に多喜二の正史に残らない秘めた恋があったとしても、電話に出た人物の自称年齢が正しいとすれば、多喜二の死亡年から逆算してまったく辻褄が合わない。物的証拠らしきものも存在しなかった。出自については、自分を幼少期から知る老人に聞かされたというだけだ。その老人は既に鬼籍にあるという。いかにも言い訳めいていたが、彼が自分を多喜二の遺児と固く信じて生きてきたことに関しては一点の曇りもないように思えた。無責任な愉快犯でないことがわかってしまうと、なぜそう信じ込んでしまったのか、そこを確認したくなった。

 彼の述懐によると、両親の顔を知らない孤児として育った。貧しい養父母のもとで、食べていくために早くから働き手となった。だが、なかなか経済的に報われず、工員としての仕事にも満たされないものが残った。そんな彼のささやかな慰めは読書だった。やがて小林多喜二という日本人が何ものかを知る。不勉強を晒し出すようだが、多喜二が国情の違う中国で最も早くから紹介された日本人作家であり、当時すでに中国国内に幅広い読者を持っていたとは、この取材に関わるまで全く知らなかった。彼は多喜二の熱心な読者のひとりとなり、「思い入れ」を募らせるうち、いつしかそれが「思い込み」に変わったのかもしれない。また、当時は旧満州で中国人養父母に育てられた残留孤児の日本での肉親捜しが盛んに行われていた。彼自身は東北三省から遥か遠い四川省で育ったから、残留孤児である可能性は万に一つもなかったが、自分のアイデンティティーの欠落を、物語性のある<異邦人=日本人の遺児>で埋めたくなることも、文学好きならあったかもしれない、と想像した。偶然にも、通訳として私の横で受話器を握ってくれた若い女性は残留孤児の二世で、彼の話を聴きながら、身につまされている風にも見えた。

 電話の向こうの彼には、こちらが持っている情報を利用して、自分の言い分の正しさを言い募ろうという気配は微塵もなかった。もちろん、こちらも矛盾点をしつこく問うようなことは控え、私見を交えるようなこともあえてしなかった。自分を多喜二の遺児と信じることで、もし隣国の片隅で暮らすひとりの中年男性が、これからも張り合いを持って生きられるのなら、事実を突きつけて「思い込み」に水をかけることに何の意味もない。そう考えながら、取材に快く応じてくれた彼に感謝の気持ちを伝えたくて、通訳の女性に合掌のポーズで合図を送った。

忘れられた「イラン短命政権」と石油国有化

Posted by Ikkey52 on 05.2014 近現代史   0 comments   0 trackback
 「石油の一滴は血の一滴」。こんな言葉を聞くと、大日本低国(帝国)戦中の超統制時代が思い浮かぶのだが、実は第一次大戦当時のフランス首相、クレマンソーの発言らしい。そのころ、日本の戦艦、巡洋艦は、石炭をガンガン燃やす設計になっていたから、当時の海軍さんは少なくとも、クレマンソーの発言の真意が呑み込めなかったに違いない。

 第一次大戦は、何の取り合いが真因なのか、どうもわかりにくいが、第二次大戦で日本の開戦原因ははっきりしている。資源確保、即ち石油だ。もちろん、エネルギーとして石炭の需要もまだたっぷりあったが、アメリカが石油製品の輸出を禁じると、とたんに干上がってしまう国に、日本はすでになっていた。

 自分がイランという国を意識したのは、パーレビ王政を打倒したホメイニ師による革命からだった。人類が月に歩みを進める時代、宗教権力と政治権力が重なる中世のような政権が誕生したのだから、国際的には大ニュースだった。イランは元々ペルシャ。歴史ある大国だ。その辺の中小新興国とはわけが違う。日本のマスメディアも、新聞とNHKは比較的古くから支局をおいていた。鳥越俊太郎も毎日新聞から特派されてテヘラン駐在を経験している。

 イギリスに蹂躙された悲しい現代史を持った国が、第二次大戦の終了で、ひとまず国家の一体性を取り戻し、目覚めるのはパーレビ王政時代の1951年に発足するモサッデグ政権下。モサッデグという人物はすでに高齢だったが、信念、清貧の人だったらしい。彼の政権は、CIAとMI-6の陰謀によって短命に終わるのだが、モサッデグが勇敢にもイギリス系石油メジャーのアングロ・イラニアンを施設ごと国有化したのは、事業利益の16%がイラン側に入る約束が反故にされ、他の中東諸国の3分の1前後しか支払われなかったためだ。

 国有化に激怒したイギリスは、「イランから直接石油を買い付けるのは盗品故買に等しい」として、ペルシャ湾に軍艦を浮かべ、顧客出現の実力阻止にかかったため、イラン国有化石油製品の買い手はなかなか見つからなかった。そこに、独立を回復したばかりの日本から、ある石油小売業者が、何の後ろ盾も持たず、たった一隻しかないタンカーを買い付けに差し向けたから世界は驚いた。「出光」だった。

 「出光」は、戦前は横並びの業界統制にひとり背を向け、戦後は国際石油メジャーの軍門に次々と下る国内各社とも一線を画し、かたくなに民族資本を守ってきた特異な企業だった。撃沈の危険を冒して、ペルシャ湾に入った「出光」トラの子のタンカー日章丸は、次にシャット・アル・アラブ河沿岸にあるアバダン港まで、座礁のリスクと闘う。取引の信義を守ってはるばるやってきた日本船を称えて、イラン当局とアバダン市民は熱狂的に迎えるのだが、そのあたりが本屋大賞受賞のベストセラー『海賊と呼ばれた男』に小説仕立てで克明に描かれ、読者の涙腺を緩ませた。

 作者の百田尚樹は周知のように、NHK経営委員としてさんざん物議を醸してきた人物だが、ある時代まで日本の少年少女が野口英世やキューリー夫人の伝記を読んで感動していたあのシンプルさを、大人の読者にもう一度思い出してもらおうと狙ったのであれば、それはそれで巧みだろう。テレビの構成作家は大衆の心の掴み方をいつも考えているものだ。

悪い噂…「縮みはじめた独裁者のミイラ」

Posted by Ikkey52 on 30.2014 近現代史   0 comments   0 trackback
 情報鎖国を続ける北朝鮮国内の動きを、細かいレベルで伝えてくれる貴重な存在だったネット新聞「デイリーNK」の日本版が、来月から休刊することになり、おおいに戸惑っている。http://japan.dailynk.com/japanese/index.php
 韓国の市民団体、北朝鮮民主化ネットワークが運営しているもので、日本支社もある。特に市場や地方に関する情報の正確さについては、金正日の長男、金正男からお墨付きをもらっているほどだった。
 
 今月はこの「デイリーNK」で、「北で広がる金日成の遺体『腐敗説』」という記事に注目した。ちょうど20年前に死亡した独裁者の遺体は防腐処理を施されたうえ、平壌郊外の錦繍山宮殿の奥深くガラスケースのなかに横たえられ、参拝の対象となってきた。事実関係でいうと、参拝は金一族の偶像化を維持するための強制的なものなのだが、時間を置いて再び参拝した一般市民の中で、「首領様(金日成)皮膚が減った」「頭など体格が小さくなった」「黒がたくさん回るなど、色が変わった」といった変化が密かに取りざたされているというのだ。管轄する幹部ももちろん相当詳しく変形度合を把握しているようだが、かといって打つ手がないらしい。なぜなら、防腐処理は金食い虫。一度きりでは終わらず、それこそ永久に続く。年間に掛かる維持経費は80万ドルという。国の管理職でも世界最貧国なら目が回るはずだ。

 金日成の遺体保存は、ロシアのチームが手掛けたとされる。金日成の死の70年前、革命ロシアの科学者たちは、レーニンの遺体の永久保存という超難題に早急に解答を出すよう党中央から半ば脅しつけられ、はじめは冷凍保存を考えたが、組織破壊の進行は止められなかった。ホルマリン、アルコール、グリセリン、塩化亜鉛などの使用が論議されたが、どれも限界がある。結局、生化学者ボリス・バルスキーが、解剖学者ボロヴィヨフに協力させ、すでに2か月を経て腐り始めていた遺体をそれなりに復元してヴォロビヨフの発案したグリセリンと酢酸液に浸す方法で見事に処理した。

 ボリス・バルスキーの息子で、自らも保存チームに関わっていたイリヤが著した『レーニンをミイラにした男』の邦訳を出版直後にむさぼり読んだのはもう相当前のことだが、「デイリーNK」の記事からこの奇書のことを直ちに連想した。『レーニンをミイラにした男』は、遺体保存の技術解説だけが綴られているのではない。のちのルイセンコ学説に象徴されるように、科学が特定のイデオロギーに服従させられる社会の危うさを浮き彫りにする一方、継続的に行わねばならない遺体のメンテナンス作業のために、一つの研究所がまるごと必要になるような非効率が、平然と許される体制の異様さが細密に描かれていた。

 毛沢東やホーチミンも遺体保存されているが、使われているエンバーミングという技術はロシアが開発したものだ。自分がじかに拝んだのはレーニンと金日成だが、どちらも写真で知る顔立ちとは似ても似つかず、蝋人形のようで何やら嘘っぽかった。レーニンの場合、スターリンただ一人を除いて、当時の指導者に遺体の永久保存を支持する者はいなかったし、第一、故人の妻、クルプスカヤが強烈に反対した。唯物論者のとるべき道ではないとの理由で。

ふたりのサンディカリスト~ムッソリーニと大杉榮

Posted by Ikkey52 on 11.2013 近現代史   0 comments   0 trackback
 ファシズムの元になっているファッショという言葉は、イタリア語で束とか集合を意味するファッシの複数形だ。全体主義を指すわけではない。イタリア・ファシズムの祖として一般的に悪名高いベニート・ムッソリーニという人は、若いころ、マルクスに心酔していた社会主義者で、スイスに亡命中だったレーニンとも交わっている。第一次大戦前までイタリア社会党の機関紙『アヴァンティ!』の編集長を務めた。その機関紙にはコラムニストのひとりとして、のちにイタリア共産党の祖となるアントニオ・グラムシもいた。社会党員当時のムッソリーニは、労働組合のゼネストによって当時の「無策の政府、決められない政権」を打倒しようと考えるようになった。まごうことなきサンディカリズムである。

 サンディカリズムといえば、すぐ連想するのが大杉榮だ。日本で労働組合の「直接行動」を革命手段に想定した。大杉が唱えた直接行動とは、武装蜂起や武力闘争の意味でなく、大規模ストライキを指している。当時としては日本を代表する大工場だった九州・八幡製鉄に争議が起きると、大杉は大興奮して現地へ乗り込み、労組員らの前で一席ぶとうとして、例によって警官から「弁士中止!」と邪魔され関与することすらできなかった。サンディカリズムを実践するために、労組団体同士の大同団結を模索するも、大杉は多数派を形成できず、孤立を深めた。

 ロシア革命の変節をいち早く感知した洞察力は絶賛されていいが、レーニンの『帝国主義論』を読んだあとも、大杉の非戦論は理論的に深まらず、イデオロギー的なままだった。異色の思想家、巧みな文筆家、語学の天才、ひらめきの人、子育てに労をいとわない、いまでいうイクメンのはしりであったかもしれないが、旧弊に挑戦するとの美名のもとに、派手な異性関係を正当化して、道徳家の間に増やす必要のない敵を増やした。自暴自棄の裏返しとして、権力を挑発したつもりの取るにたらない抵抗を示しては、再三入獄させられ、獄中で強がりはしたが、結果的に貴重な時間を無駄にした。秘密渡欧の目的だったベルリンの国際アナキスト会議が延期されて待ちきれなくなり、待機潜伏先のフランスでメーデー集会の壇上に自ら躍り出て演説し、捕まって国外追放されるがごときは、まるで駄々っ子のうっぷん晴らしであり、自暴自棄の典型行動だろう。そうした子供っぽさ、無邪気さが、ある意味、人間大杉をいつまでも魅力的に見せているのかもしれないのだが。

 すぐれた革命指導者の最低条件は、不屈であること、自暴自棄に陥らないこと、純化を求めず清濁併せのむことだと思う。大杉はそのすべてを欠いていた。ムッソリーニはどうか。
 社会主義者として、第一次大戦勃発期まで頑固な非戦論者だったが、次第に絶対的中立から効果的中立への主張を変える。やがて参戦論に傾いて社会党を追われるが、その後も左翼として、「革命的参戦運動ファッシ」「国際主義参戦ファッシ」などと組織的参戦運動を展開し、自らも一兵卒として従軍を志願した。軍隊では最前線への配属を希望し、激戦を潜り抜け戦功もあげた。後方中心の伝令兵だったヒトラーとは違う。戦後もサンディカリズムを捨てず、一方でイタリアが資源小国である自覚を深め、沿地中海圏への領土拡張の必要性を意識した。このあたりは日本にとっての満洲の重要性を考えた石原莞爾ともダブる。政界進出に向けては、外国政府の援助も受けたし、時の政権と密かに取引するなど手段を選ばなかった。ナショナリストを取り込み、選挙で議会の第3党に躍進。それを足掛かりに民兵組織を使ってクーデター寸前の状況をつくり出し、追い詰められた国王から自分あてに組閣勅命が下るよう巧みに仕向けた。独裁体制をつくり出したあとのムッソリーニの罪科はここでは論じないが、イタリアを焦土にすることなく権力の頂点に上り詰めた手腕は水際立っており、天才的だといえる。
 
 イタリアと日本、ふたりのサンディカリストは、ともに遅れて近代化を歩みだした国家の黎明期(1880年代中期)に生を受けた同世代人だ。どちらも長男で、ムッソリーニはアナキストである鍛冶屋の一家、大杉は日露戦争にも従軍した職業軍人(将校)の家庭に育っている。ファシズム革命に成功し国家の全権を掌握したムッソリーニも、大杉と同じく蓄財には死ぬまで無関心だったという。彼らの近さと遠さが興味深い。

世界記録「神風号」機関士が消えた空に…

Posted by Ikkey52 on 02.2013 近現代史   0 comments   0 trackback
 深田祐介のノンフィクション作品に『美貌なれ昭和』がある。「美貌なれ」という表現が心憎いが、これは昭和12年に朝日新聞社機「神風号」が東京-ロンドン間の亜欧連絡飛行最短時間記録を打ち立てた際、感激した作家の吉川英治が新聞に寄せた一文、「美貌なれ国家」から採ったもの。

 「神風」とは本来、「伊勢」にかかる枕詞で台風のこと。本意がかすみ、特攻隊の代名詞になるのはのちの話だ。伊勢神宮の森や五十鈴川の浅瀬の静謐なイメージと台風はすぐには結び付かないが、考えてみれば、三重、伊勢湾あたりは確かに台風銀座ではある。
 
 朝日が文字通り社運をかけて「神風号」を飛ばせた当時の背景には、東京日日新聞、大阪毎日新聞(ともにのちの毎日系)との熾烈な部数競争があった。足の速い航空機と熟練の搭乗員を抱えていることを見せつけ、速報性の優位をアピールする計算だ。
 イギリスのジョージ6世戴冠式奉祝を大義名分にしてロンドンを目指す朝日の「神風号」は、立川を離陸。台北、ハノイ、ビエンチャン、カルカッタ、カラチ、バスラ、バクダッド、アテネ、ローマ、パリと各地で大歓迎を受けながら飛び石飛行を続け、94時間17分56秒後にロンドン着。給油・仮眠をのぞけば51時間19分23秒の実時間で飛びきったことになる。
 
 「神風号」に搭乗したのは朝日の航空部員だった操縦士飯沼正明と機関士Tの2人。やがて全国紙に発展しようという朝日はその頃まさに伸び盛り。それが社をあげて「世界記録への挑戦だ」と前景気を煽る。しかも2人がともになかなかの美丈夫とあって、日ごろあまり新聞を読まない女性の間でも話題が沸騰、当時としては珍しいこうした社会現象は「神風熱」と呼ばれた。

 「神風号」の快挙を讃えて筆を執った著名文人は少なくなかった。北原白秋もそのひとりで『遂げたり 神風』という詞は、山田耕作の作曲でレコード化されたが、B面には同じ北原の詞に、朝日創業者村山龍平の孫娘で甲南高女生だった美知子がつけた曲が納められた。非上場のオーナー会社で時代も時代だったとはいえ、この公私混同ぶりは奇異というほかないが、一説によると、当時独身だった飯沼操縦士と美知子の間に結婚の噂があったという。噂が根も葉もないものだったのかどうか、飯沼は戦中に事故死しているから、90を越えてなお健在の美知子に尋ねるしかないが、事実として美知子は独身を通した。2008年にテレビ朝日が親会社の朝日株を美知子経由で取得し、メディア・ウォッチャーたちを驚かせたが、朝日の三代目社主である高齢の美知子に跡継ぎのないことが、この株取引の裏事情にある、とは事情通の一致した見方だ。

 一方、すでに所帯持ちだった機関士のTは、日英混血という異色の出自で、昭和19年に軍の秘密任務を帯び、A26型機でシンガポールからドイツに向かう途中、インド洋上で消息を絶った。同盟関係にあった日本とドイツは一時広範に持っていた制海権、制空権を次第に失い、両国間の直接連絡は、まさに決死行だった。
 
 私が東南アジアの取材に明け暮れたころの記者仲間で、いま東京某キー局の幹部に納まるYが、「神風号」機関士Tの孫にあたると気づいたのは、そう古いことではない。Yは私たち仲間に、欧米系の血を引くことを隠さなかったし、問われれば著名なNHKアナウンサーだった父君の話にも触れたが、祖父君Tのことは、なぜかおくびにも出さなかった。
 
 日独軍事連絡便の搭乗員としてのTの最期について、私は、史実を曲げないことで知られる吉村昭の戦史小説に教えられ、Yとの続柄を確信した。これまで考えてもみなかったが、Yと私は仕事柄、競い合うようにして、インド洋の上も何度か飛んでいる。そこは、戦争末期にTが消えた空だ。機内での持て余す時間、空の英雄を祖父に持つYが、どんな心境で機窓を眺めたのか、機会があれば尋ねてみたい。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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