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追憶のバングラディッシュ

Posted by Ikkey52 on 04.2016 アジア・冒険   0 comments   0 trackback
 人質テロ事件でにわかに注目を集めた南アジアの国バングラディッシュ。旧知の大手旅行代理店勤務の女性に聞くと、さすがに日本からの観光ツアーは組まれていないとのこと。さもありなんだが、事件関連の報道に触れて驚くのは、想像を上回る首都ダッカの発展ぶりだ。アジア最低といわれる労賃の安さからだろうか。

 思いがけない悲劇が思いがけない国で起こった。少なくとも狂信的イスラム宗教国家の印象はない。一報を聞いてから、すっかり忘れていた過去の記憶が断片的に蘇ってくる。なにしろ自分の唯一のバングラ体験はふた昔以上も前だ。ベンガル湾に面した同国では毎年のように発生する台風で被害をだすのだが、その年の春、想定外の巨大サイクロンに襲われ、新聞の外報面で伝えられる死者数は日を追うごとに万単位から10万単位に膨れ上がっていった。取材のオーダーを受けて、慌ててマニラのバングラ大使館で取材ビザをとり、バンコクを経由してダッカ空港に降り立った時点では、発生から10日近く経っていたと思う。

 バングラディッシュの国名は知らなくても、ダッカ空港の名はある年齢以上の日本人の記憶にはくっきりと刻まれているはずだ。1977年、パリ発で、アテネ、カイロ、カラチ、バンコク、香港を経由して東京に向かう日航機が日本赤軍にハイジャックされ、強行着陸させられたのがダッカだった。交渉の矢面にたった福田政権は犯人側要求をほぼ丸呑みし、身代金600万ドルを支払い、服役・勾留中の仲間6人を釈放した。いわゆる「ダッカ日航機ハイジャック事件」だ。自分が降り立った当時の空港は、事件のころと滑走路や空港ビルの位置が変わっていたが、古い滑走路と見られるところに、貧しい人たちの勝手に建てた粗末な小屋が点在しているのが見えた。縛るべき秩序がない、いわば放置の状態だ。国の土を踏む前にいち早く洗礼を受けた気がした。

 現地の取材にいい思い出はない。極め付きの悪路、山賊出没情報に尖りっぱなしの神経、放置され腐敗する遺体とその臭気、放心状態で路側に座り込む農民、泥の荒れ地に佇立する長老らしき老人、腹を空かせて救援物資満載のトラックを無秩序に取り囲む被災者の群れと、そのトラックの上から鞭を振るう居丈高な兵士、粗末なテント製の伝染病者隔離病棟、格納庫で整備中の東京消防庁の支援ヘリを突如襲ったバッタの大群、ベトナム戦争の退役米軍機を使うバングラ空軍ヘリに便乗し、被災地上空を撮影しようと開けたドアが着陸まで閉まらなかったことなど。

 高価なカメラ機材を持って泊まっても心が休まる場所は、ダッカ市内のホテルしかなかったが、ホテルの従業員からは市内の治安の悪さを理由に歩き回るなときつく戒められた。敬虔なイスラム教国で酒はご法度。ともあれ訳知りの先輩に聞いた通り、「私はアル中です」と書いた紙をボーイに渡して交渉したが、ホテルに酒のサービスはない、の一点張り。だが、そこは蛇の道は蛇。韓国の商社マンが屯すという店の存在を聞きつけて訪ねると、店内の電気を消し、ローソクの明かりでビールやワインを提供していた。ヤミの酒を飲むスリルを知ったのはバングラだった。

 滞在中、すっと泣かされたのは通信事情の悪さ。海外にもかかる携帯電話の普及など後の話。ダッカ市内に何軒もなかった外国人客向けのしっかりしたホテルからも国際電話が出来ない。中央郵便局から架けられると教わり、出向くと長蛇の列。仕方なく、2、3日に一度は国際電話ボックスがある空港まで往復した。市内との距離はそう遠くないが、道中はリキシャと呼ばれる三輪車で殺人的な交通渋滞が続く。マニラから来たので路上のカオスには慣れているつもりだったが、想像を超えた。電話連絡のために半日が飛んでしまった。そういえば、今度の事件の犠牲者にも交通渋滞解消に向けた都市計画の担当者がいた。彼の国の泣き所改善のために汗を流していた同胞が…、と思えば、その死は限りなく痛ましい。

 当時から現地の邦人組織といえばJAICAが代表的で、情報をもらったこともあった。取材の足となる四輪駆動車は国際NPOから借りたはずだが、それはどこの組織だったのか、ベンガル語のコーディネーターはどんな手づるで誰に頼んだのか、いまとなっては失念したことも少なくない。
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拘束されて知った〈書き得週刊誌〉の”パキスタン売らんかな報道”

Posted by Ikkey52 on 18.2014 アジア・冒険   0 comments   0 trackback
 東京のミナモザという小劇団が昨年夏、「彼らの敵」という芝居を打ったことをネットで知った。ハッとしたのは、自分が取材の一端に関わった実際の事件が下敷きになっていたからだ。20年も前になるが、インダス川をラフティングボートで下っていた日本の大学生3人が強盗団に誘拐された。強盗団といっても、早い話が山賊。金目当てに違いないが、どう出てくるかわからない。日本人記者、カメラマンが、人質の安否報道のため、続々とパキスタン入りした。

 「当時一帯では、身代金目的の誘拐事件が多発していた。現地の日本大使館は詳細な治安状況を把握できていなかった。大学のラフティング・サークルに所属していた3名の学生は『万全の準備』をもって臨んだにもかかわらず、武装集団による誘拐・監禁という憂き目に遭ってしまったのである」と記すのは、劇団主宰者に取材したと見られる小劇場レビューのHPだ。(http://www.wonderlands.jp/archives/24525/)   
 学生たちは通算44日間の監禁のあと解放されたが、帰国後は苛酷なバッシングに遭う。バッシングの最大要因となった週刊誌記事が、事実誤認と虚偽にまみれていたというのだ。

 詳細は省くが、カラチを拠点に取材を続けた我々クルーは、犯人の強盗団と軍との交渉が持たれる場所とタイミングに関する確実な情報を入手、そこに学生たちが連行されていることも分かった。現場は緊張関係にあるインドとの国境が近く、それでなくても治安の悪い地方の交通不便な山中だが、最寄りの村にヘリで飛び待機すれば、解放後の元気な姿をキャッチできると踏んだ。ロバが行き交う赤土の村のヘリポートに降り立つと、長身の警官たちが何人も待ち構えていた。「立ち入り禁止地区に許可なく入ったので、身柄を拘束する」。ご宣託が下る。パイロットを含め全員が否応なくパトカーへ。万事休すか、とあきらめかけたが、留置場に放り込まれず、見張り付きの小さな宿に軟禁されたことを思えば、法を犯したというより予防検束ではないかと思い直した。

 現地で話されるウルドゥー語を英語にしてくれる若い通訳君も一緒に拘束されたが、彼は取材クルーのアテンドは初めてというわりに、飲み込みが早い。村に宿はもう1軒あるだけだというので、そこの帳場の女性に毎日電話を入れ、四方山話をして電話フレンドになっておけ、と指示するとしっかり実行する。拘束何日目だっただろう、通訳君が親しくなった帳場の女性から聞き出したところでは、「イスラマバードの日本大使館から予約が入り、数人がすでに到着したが、あと3人はこれから到着する」とのこと。当たりだっ、と小躍りしたかったが、かごの鳥状態は変わらない。短期滞在のつもりで、カラチにいるジャーナリスト仲間に取材費の大半をあずけていたが、決定的瞬間をモノにするまで同業者には知らせたくない。一方、思いがけない拘束の長期化で財布は軽くなるばかり。これ以上はもう宿泊費が払えない。車もめったに見かけない田舎の宿であり、国際電話やカードの利用など夢のまた夢だ。万極まって、思い出したは、カラチの安ホテルで朝な夕なに顔を合わせ言葉を交わした謎のビジネスマン。ロンドンで衣料品会社を経営し工場はこの国に持っているとか、パキスタンの旧王室の出で政府に知己が多いとか、話半分に聞いていたが、頼れるのは彼しかいない。幸運にもすぐ連絡がとれたので事情を打ち明けた。ほどなくして、我々の宿に彼から連絡があり、君たちの身柄の拘束は解かれた、宿の主人に電話を代われ、という。主人は恭しく電話の向こうに相づちをうち、宿代はあっけなく保証された。

 キツネにつままれたような拘束劇が終わってみれば、今度は週刊誌報道のバッシングが待っていた。我々が拘束されている間、交渉現場上空を傍若無人にヘリで飛んだ社があり、それを嫌った犯人側が交渉をキャンセルしたというのだ。交渉予定日には、我々はまだかごの鳥で、ヘリに乗れるわけがない。にもかかわらず、某週刊誌は我々クルーの仕業と断定し、人命軽視の軽率取材と報じた。我々の拘束自体を察知していない日本大使館筋は、馬鹿なことにでたらめな週刊誌報道を真に受けて、我々を問題児扱いする始末。いま思い返しても当時の悔しさがよみがえるが、人質となった学生たちの受けた理不尽なバッシングと、それに表立って反論できないで来た20年の月日をあらためて思うとき、売らんかなのジャーナリズムの罪深さを再認識した。

ソ連機に追われた記

Posted by Ikkey52 on 29.2013 アジア・冒険   0 comments   0 trackback
 今思い返しても冷や汗が流れる「若気の至り」は数多い。ヘリで取材に向かう途中、ソ連軍用機に脅されて逃げ帰った経験がある。1983年9月1日に発生した大韓航空機撃墜事件の取材。ソ連の空対空ミサイルを撃ち込まれたジャンボ機の墜落現場はサハリン南西端海上に浮かぶモネロン島沖と伝えられていた。我々の取材ヘリは稚内空港を飛び立って北北西に進路を取った。モネロン島まで120キロほど、といっても、モネロン島はサハリンの一部としてソ連が実効支配している。もろに上空を飛べるわけではないが、できる限り現場に近づくのは取材者の鉄則だ。行けるところまで行ってみよう。パイロットとカメラマンと自分の3人は、そんなゆるい合意を持って飛び立ったのだが…。

 防空識別圏のことはもちろん知っていた。ごく単純に言えば国防上の理由で設定された空の国境である。それを越えれば誰も守ってくれない。操縦桿を握るパイロットには我々取材クルー以上にその意識はあったはずだが、三者三様に海上の漂流物探しに集中していたためか、いつしか防空識別圏への注意が希薄になっていたらしい。その間、レーダー監視している稚内管制から航空無線で警告を受けるようなことは一切なかった。

 モヤがかかって視界はベストとはいえず、島影は見えてこなかったが、時間経過からしてモネロン島に接近していた。最初に米粒大の黒い点を雲間に見つけたのはパイロットのAさんだった。Aさんは民間航空会社に就職して間もなかったが、自衛隊を定年まで勤めたたたき上げの大ベテランで、その飛行時間の長さと技量の確かさからパイロット仲間で知らぬ者はいなかった。黒い点はみるみる大きくなり、機影であることが判別できるまでになった。我々の念頭には、やっと捜索現場に達したという安ど感があるだけで、その感覚からは、機影は日本もしくは米軍の捜索機、という答しか導けない。ところが、まっすぐ我々の乗ったヘリに近づいてくる双発機の翼にはソ連軍であることを示す赤い星が描かれているではないか。

 ヘリやセスナの機内では、轟音で肉声は伝わらず、搭乗者同士はヘッドフォンとそれに取り付けられたマイクで会話する。「ロスケの野郎ッ」というAさんの声が聞こえた直後、機体が大きく揺れた。ソ連軍機が我々のヘリの真上を通過したのだ。ヘリは回転翼の上の気流を乱されると、簡単にバランスを失い、墜落することもある。故意の威嚇であることは明らかだ。Aさんは必死で操縦桿を南へ切っていたが、ソ連軍機は大回りしてまた我々のヘリに向かってきた。
 「ロスケの野郎ッ」の差別用語は、自衛隊入隊以来、ソ連=仮想敵の教育を受けてきたAさんが戦闘モードに入るにあたって、理解できない反応ではなかったし、日本人28人を含む269人の無辜の人々の人生を理不尽に一瞬のうちに奪ったソ連軍に対する世界市民のリアクションとして当然だった、と思えたのは後のこと。こちらは、恥ずかしながらただビビりまくっていただけだった。
 
 当時のソ連は元KGB議長出身の強硬派アンドロポフ書記長が政権を担っていた冷戦後期。一時まことしやかに、全員生存説が流布されたこと、コースを外れて飛んでいたことをアメリカは知っていてソ連のスクランブル能力を試したのではないか等々、10年後に自動操縦装置の故障だった、といわれても、到底わりきれるものではない。ともあれ、あれから30年の月日が流れた。

南沙列島への苦い旅~アリの一穴…マレーシア・ルート

Posted by Ikkey52 on 09.2012 アジア・冒険   0 comments   0 trackback
  南シナ海に点々と浮かぶ南沙(スプラトリー)諸島がまたきな臭い。フィリピンが同諸島の資源開発準備をすすめていることに、中国と台湾が猛反発しているからだ。共同通信が伝えた。同諸島は南北800キロにわたって広がる約100の島々から成る。戦前、インドシナ半島を殖民地にしていたフランスが一部を実効支配し、のちにアジア進出を図る日本が植民地だった台湾・高雄市の版図に編入、戦火拡大による撤退までリン鉱石採掘などを行った。戦後、石油や天然ガスが豊富とされると、中国、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、台湾がそれぞれ領有権を主張し争ってきた。 

 かつて、南沙列島に苦い旅をしたことがある。限られた時間内に南沙諸島の一角を撮影し日本に伝送する仕事だ。発注者は、香港、バンコク、ハノイ、シンガポール、いずれの情報集約地にも手配したが脈は薄い。もしかして、と淡い期待が持てるマレーシア・ルートを推薦した自分に仕事が回ってきた。まず、マニラからボルネオ島北部の観光都市コタキナバルに入る。公的機関に正式に許諾を求めている暇はない。とにかく映像入手ができればいいので、迷わずチャーター可能なヘリかセスナを所有するローカル航空会社をあたった。自国領土というならば、上空の飛行に許可などいらないだろうと踏んだ。ところが適当な機種がない。これでどうだといわれたのは20人がたっぷり乗れる双発機で、手持ちの取材費では到底カバーできない。途方に暮れて、夕方近く港を歩いていると、そこはヨットハーバーになっていて大小のクルーザーやボートが所狭しと係留されている。所有者をあたるなかで、長い距離にも耐えられそうな一隻の高速ボートを見つけ、フィリピン人オーナーと交渉、翌朝出発の約束を取り付けた。決め手は、当方のクルーに同国人の助手がいたこと。こういう時に、フィリピン人が発揮する共助の精神は半端ではない。地獄に仏と、両手を合わせたくなった。

 目指すは片道2時間ちょっとかかる南沙列島最南端の島。資料によると海洋自然公園とされ自然保護監視員が駐在している。満タンの燃料プラス帰路分をドラム缶ごと積んで重さを増したスロットル全開の高速ボートは、走るというより水切石のごとく、飛んでは落ち、飛んでは落ちを繰り返す。最悪な乗り心地に耐えるのみ。目的の小島には小型船しかつけられない木製の小桟橋があった。上陸すると、Tシャツ姿の男たちがまるで待ち構えていたかのように数人姿を現した。突然訪問して驚かせたことを詫びようとした瞬間、彼らがマシンガンらしきもので武装していることに気付いた。軍事組織のカムフラージュに違いない。「自然監視員の方ですか。我々は映像を撮りにきたテレビクルーだ」と話しかけてみたが、相手は銃こそ振り回さないものの、とっとと帰れと冷たいジェスチャーを繰り返す。粘るのは危険と判断し、交渉早々と岸を離れた。
 
 とはいえ、手ぶらでは帰れない。ジャングルからの狙撃の恐怖と闘いながら、こっそり小島の裏手に回って素早くレポートを収録、大海原に出てやれやれと思ったとき、今度は北に向かう中国軍艦と遭遇。肉眼で視認できる以上、向こうもこっちを見ている。操縦桿を握るフィリピン人オーナー氏も顔色を変えた。中国艦からできるだけ遠ざかろうと高速ボートの進路を東にとる。艦影が消え、1時間も走ったころにまた一難。高速ボートのエンジンが咳き込み始め、ついに止まった。水切石が突然、木の葉に変わった。甲板の床を開けてオーナー氏がエンジンルームに体を入れたまま、なかなか出てこない。伝送の締め切りは迫っている。このまま漂流して翌日の飛行機を逃せば仕事は万事休すだ。いや、嵐が来たらひとたまりもない…。そんなことが頭をかすめる。エンジンがかかったときは、全身から力が抜けた。
 
 思えば、あのコタキナバルでは偶然、年に一度の政権党の全国党大会が開かれており、ホテルというホテルはどこも満室。予約なしに突入した我々は高価なカメラ機材一式を抱えて野宿するわけにもいかず、中国系貧民専用の木賃宿に潜り込んだが、蚕棚状のベッドのある部屋に知らない同士が何人も詰め込まれ、一晩中、物盗りの恐怖と戦った。いろいろあって、忘れられないボルネオのリゾート地体験だった。

  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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