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劇作家、別役実…80歳のテレビ観・作劇観

Posted by Ikkey52 on 07.2017 テレビ   0 comments   0 trackback
 ニュースは一報を落とさないようにエネルギーを使うが、火傷を恐れてけして突っ込まない。ストレートなドキュメンタリーはかなり前から絶滅危惧種扱いとされ、北極、南極と隠語で呼ばれる早朝、深夜にしか編成されない。情報番組は街歩きとグルメが隠れたメインディッシュ。バラエティは出演者を多くして、視聴者の好き嫌いを薄めるのが常套手段だが、お姉マンはよくてもレズはだめ。ドラマの現代劇は、若い社会人の等身大像しか扱わず、金のある大河ドラマは、ひたすらキャスティングの意外性で魅せようとする…。

 そんな昨今のテレビ事情に不満を抱く向きも多かろう。劇作家の別役実が、実に鋭いテレビ批評をしているので、どうしても紹介したくなった。不条理劇に影響を受けて、早稲田小劇場を率いた別役は今年80歳だが、元気そうだ。『民間放送』17年6月3日号掲載の「放送を『評論』する視点とは④」から引く。

 「ことばについて。言葉は昔の説教節のように、まず100人に発信し、そこで活性化されて周辺へと段階的に伝わっていく構造が必要だ。戦後の日本の情報伝達はマスコミによっていきなり広く伝える形になった。だから新しいものができても消費物として扱われ、文化的な蓄積にならない」。

 「久米宏は『これはこの人が伝えるニュースです』と色を付けることで言葉に味わいを持ち込もうとした。ところがこれを繰り返すことで言葉は摩滅され、力を失った。何を伝えるかが顔でわかってしまう。コント55号の欽ちゃんもしゃぶりつくされた顔だ」。

 「独自性をどう保証するかが言葉にとって最大の問題だ。人々は常識的な見解に飽きるものだ。一方で独自性があれば多少間違っていても構わないというのがあって、庶民の側にも実行不可能で独自的すぎる極論に乗っかりたい衝動が常にある。トランプ現象はそれではないか」。

 「差別用語の問題がある。『めくら』という言葉を使ってはいけなくなっているが、感覚的にはそう言ったほうが、残酷な響きが含まれる可能性がある分だけ、人間性を映し出すことにもなる。そのほうが具体的な関係が肉感的に確かめられる」。

 「500人の劇場で『めくら』と言っても差別的とか残酷には聞こえない。ところが、不特定多数の1億人に放たれた場合、どんな残酷さを引き起こすか見当がつかないので使えない。それでも格闘しないと…。言葉というものは、格闘して生まれ、成立している。なのに無難にすませようとして、すべてをなくしてしまうと、肉声が持つデリカシーが消えてしまう」。

 「リアリティについて。かつてテレビ時代劇には、紋切り型のせりふの作り方があった。だから変えようもあった。時代劇のせりふが口語文になったいまは、どこまで変えていいかわからない」。

 「共感について。見る人の『共感』が重要だ。共感には『観念的な共感』と『皮膚感覚による共感』の二つがあり後者が重要だ。親しい人物を殺し、盗みもしたにもかかわらず、『憎めないなあ』というのがあるとしたら、それが皮膚体験した場合の評価になる」。

 「キャスティングについて。誰が舞台に立ち、誰が主役だ、というのは、演劇をわかりやすく楽しむために、長年文化が培ってきた方法だ。時代劇などの決まった演目で、これはこの人の役だというのは重要だ。歌舞伎役者のような、貫禄などというのも大事だ。いまのテレビの、主役を誰にしたいというのはちょっと違う」。

 「脚本について。最近井上ひさしやつかこうへいの脚本をあらためて読んで気づいたことがある。2人は最終的に楽しんでいるところが違う。井上ひさしは浅草の軽演劇の楽しさを知っているし、つかこうへいも学生運動の中に笑いを持ち込んだ。そんな笑いにくいものを笑うんだね。そうした新しい笑いを持ち込むことが演劇には重要な気がする。ほかの劇作家はだいたいまじめすぎる。テレビドラマについては、ストーリーや意表を突く部分を楽しむなど、趣向や仕掛けの工夫するしかないんじゃないか」。
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「炎上」加速に手を貸すテレビのネット依存

Posted by Ikkey52 on 25.2016 テレビ   0 comments   0 trackback
 幸いなことに自ら「炎上」を体験したことはないが、ネット上で袋叩きになる恐怖は容易に想像がつく。自分の意見表明が、不特定多数の人間を刺激し、彼らから一斉に責め立てられ、恨みを買っていると思えば、日々の生活も安心して営めない。それにしても、実際に「炎上」に加担する、いわゆる「ネット住民」の素顔はどんなものなのか。

 名乗りもせず、未見の相手を罵倒する卑怯者たちの実像は、国際大学の講師山口真一の面白い論稿に仄見えていた(『GALAC』9月号特集「ネット世論と炎上のメカニズム」)。それによると、2014年に山口らが行った2万人対象の調査で、炎上に関して、過去一度でも書き込んだことのある人はネットユーザーの1.1%しかいなかったという。炎上事案の攻撃者はごくごく少数者だというのだ。2ちゃんねる管理人ひろゆきは、2ちゃんねる上のほとんどの炎上事件の実行犯は5人以内であり、1人の場合もあると述べている。ジャーナリスト上杉隆は、自身のブログを炎上させた700コメントのIPアドレスを調べたところ、コメントしていたのはたった4人だったという。事実だとすれば、幽霊の正体見たり、だ。

 ネット上の「炎上」が、自分の正義感に酔っぱらった、ごく少数の連中によってなされてきたとすれば、かなり気は楽になる。彼らからの罵倒は、けしてサイレント・マジョリティを代表するものではないからだ。しかし、世の中では「炎上」が引きも切らない。NHKスペシャル『#不寛容社会』によると、世間で話題になった「炎上」だけでも年間1000件以上あり、この5年で10倍の勢いだという。なぜか。

 テレビがネット炎上を加速させている、というから問題の背景は複雑だ。法大の准教授藤代裕之によると、テレビの制作者がネタ探しの一環として、いわゆるミドルメディア(まとめサイトなど)で「炎上」というキーワードをチェックし、それを「ネットの声」として取り上げた結果、騒ぎは大きくなるというのだ。「何らかの意図を持ったネットユーザー側からすれば、このような炎上の構造を理解していれば、騒ぎを起こしてマスメディアに報じさせることで、個人や企業に打撃を与えることが可能になる」(『GALAC』9月号特集「テレビが“ネット炎上”を加速する」)。

 最近のテレビのニュース・シーンは、洋の東西を問わず、視聴者の投稿動画が大手を振っている。しかし事実確認を軽視し、速さだけを追い求めると、大やけどする。実際、フジテレビは東武東上線の事故映像に見せかけたインドネシア鉄道事故の一コマを掴まされ、うっかり放映してしまうというチョンボを演じた。ネット上に「炎上」の文字を探し、安易にテレビのネタに仕立てる脇の甘さは、それと通底している。

 藤代がテレビスタッフの情報源と見るミドルメディア(まとめサイトなど)は、ネット上で市民権を得ていても、運営会社さえ不明の胡散臭いものが多い。しかも、たいていは最初からメディアとしての自覚はなく、アクセスを多く集めればいいと割り切って、ガセネタを伝えても謝りもしない。まれに「取材」と称して事案の当事者にアクセスしてくる場合もあるが、真面目に対応してしまったばかりに、捏造記事を飛ばされ、かえって信用を傷つけられた企業を自分は実際に知っている。テレビというマスメディアで働く人間が、メディア・リテラシーを問われるというのは、しゃれにもならない。

古舘ステーションの終焉

Posted by Ikkey52 on 03.2016 テレビ   0 comments   0 trackback
 3月31日の放送分をもってテレビ朝日「報道ステーション」のメインキャスター古舘伊知郎が番組から降板した。他局を凌駕する視聴率を獲得していたことから、早々と昨年末に表明された降板宣言には誰もが意外に思ったし、そこに至った原因について様々な憶測も乱れ飛んだ。与党自民党の圧力に嫌気がさしたと素直に読む向きが多いのだが、生来の天邪鬼としてはそう単純には受け取れない。

 テレビは視聴習慣といわれる。自分は長く久米宏の「ニュース・ステーション」を見て来たので、古舘の「報道ステーション」にも自然にチャンネルをあわせるようになったのだが、ある時期から嫌悪感を抱くようになった。その要因はいくつもある。

 第一に、弱者の味方を強調しようとする小賢しい自己卑下が鼻についたこと。「みなさん、パワポ(パワーポイント)ってわかりますか。私は知りませんでした」という発言もあった(関東学院大教授・新井克弥)。日々ニュース報道の最前線にいながら「良く言うよ」、である。第二に、素朴な感想の吐露を装って明らかに論評と思われる言辞を頻繁に口にするようになったこと。ここ数年は異常とも思えた。本来、社論を持たないテレビ局のニュースに人々が期待するのは動画メディアならではのわかりやすい解説であって、ジャーナリストでもない者の持論ではない。第三に、コメンテーターの権威に対する阿りや追従が過ぎていたこと。特に朝日記者の発言には無謬を前提にリアクションしていたし、詐話師ショーンKの空疎な意見をありがたく奉っていたのは記憶に新しい。

 古舘がある種天賦のしゃべくりの才に恵まれているのは、伝説のプロレスやF1実況を思い起こすまでもないし、自分はそんな彼のファンでもある。ただ、「報道ステーション」の古舘は最初から力み過ぎていた。肩ひじを張ってきた。磯村尚徳や筑紫哲也、木村太郎ら練達のジャーナリストを向こうに回して視聴率戦争を勝ち抜いた久米宏が、ニュース・キャスターでな<ニュース・ショーの司会者>という役回りに徹することで成功したのに比べると対照的だった。

 「もっと軽やかにニュースを伝えられなかったか…」と過去12年間を振り返り、最後の放送で悔いを述べた古舘の心情は分かる。しかし、メディア論が専門の先の新井によると、「私たちテレビ報道もそうですよね…言ってみりゃね、空模様の4Kテレビというかね、とにかく中身のわかりやすさとか精度を上げて、少しでも空模様に対応できるようにしていかなければ」というふうに十八番の言葉遊びを禁じられていたわけでもない。しかも番組は、古舘伊知郎の所属プロダクション「古舘プロジェクト」の社長、佐藤孝が全権を掌握してニュース項目まで決めることができ、テレ朝報道局のプロパー社員は誰も逆らえなかった。政治的圧力に対する防衛策を打ちたければ、キャラクターの微調整などいくらでもできる環境だった。のみならず、視聴率は好調をキープしテレ朝は経営的満足を得、朝日新聞も自社論調のちょうちん持ちを務めてくれているのだから文句のつけようがない。

 きょう現在、古舘自身が番組降板の経緯について本心を語っているようにみえないから、あくまで憶測でしかないのだが、政治的圧力のせいにするのはどうみても無理がある。「古舘プロジェクト」がテレ朝から得ている巨額の番組制作費(一説には年間30億円とも)をソデにしてまで、表舞台を降りる本当の理由とは何なのか。昨年、一部女性誌が報じたように、案外プライベートな問題があったのかもしれない。

「24」最新作に見る日本は?…耐えられないほど軽い存在

Posted by Ikkey52 on 05.2015 テレビ   0 comments   0 trackback
 「これまで観た映画で一番よかったのは?」といった設問にときどきぶつかる。きわめつきの愚問だと思う。比べようがないではないか。映画芸術が扱う範囲は余りに広い。時代も違えば、制作地も違う。映画の都、ハリウッドの産業を守るために、テレビドラマもハリウッドで作らせようと政策的誘導を行ってきたアメリカでは、そもそも映画とテレビドラマの区別すらないに等しい。

 米テレビドラマのアクションものでは記録破りのメガヒットとなった「24 -TWENTY FOUR-」の最新シリーズ「リブ・アナザー・デイ」を観ていて、欧米人の日本観について大いに考えさせられた。
 例によってアメリカの対テロ捜査機関CTUの元捜査官ジャック・バウワーが米大統領の命をテロリストから危機一髪、守り抜く話。今回は大統領がロンドンに外遊中、どの国の軍事システムにも自在に入り込める手段を、イスラムのテロリストが開発し、アメリカの軍艦にニセの攻撃命令を掴ませ、中国の空母を撃沈させてしまう。大統領は直ちに中国の共産党主席と電話会談し、ことの事情を説明するが、主席の怒りは収まらず、報復攻撃に出る。ターゲットは沖縄の米軍基地だ。こんどは大統領が日本の首相に電話するのかと思いきや、そんな気配さえない。大統領に同行している危機管理の幕僚たちも「日本、台湾、南朝鮮」などともごもご言うだけ。ついには、日本政府の頭越しに沖縄駐留米軍に対し、迎撃態勢を取るよう指示する始末…。基地を貸す主権国日本のプレゼンスはカケラほども見当たらない。

 すぐ連想したのは、「存在の耐えられない軽さ」という映画タイトル。原作となったチェコ人作家、ミラン・クンデラの同名小説は、ニーチェの言葉に始まる哲学的な問題作で、1968年の「プラハの春」とその反動を時代的背景に選んだものの、それに必ずしも特別な意味を見出していたわけではなかったようだ。しかし、映画で主人公トマシュを演じたダニエル・デイ・ルイスの虚無の目に気づくとき、観る者は等しく、耐えられないほどに軽い存在とは何か、深い内省にとらわれた。

 冷戦構造が固まってしまうと、東側の盟主ソ連にとって、ワルシャワ条約機構に取り込んでしまった東欧の同盟国は十把一絡げの子分に過ぎなくなった。衛星国の指導者たちの首は盟主の意のままに挿げ替え可能だったから、特別な援助もいらなくなっていった。実際、チェコではミラン・クンデラら作家同盟のインテリたちが党批判ののろしを上げ、「プラハの春」を準備したが、チェコの党第一書記ノヴォトニーに泣きつかれたブレジネフは「あなたがたの問題だ」と突き放したという。
 
 冷戦は終わったが、アメリカは新たなスーパーパワー中国の台頭に身構えなければならなくなった。「24」に登場した米軍幕僚たちが「日本、台湾、南朝鮮」と口にしたように、それらの国々はアメリカの対中国前線に打ち込まれた楔には違いないが、心強い盟友というわけではない。日本とアメリカの間には特別に密接な関係がある、と考えるのは夜郎自大というもので、「24」のメイン視聴者であるアメリカ大衆も「日本、台湾、南朝鮮」と十把一絡げにしたセリフになんの違和感を持たない。冷戦下、ソ連がワルシャワ条約機構加盟の一小国を見ていたまなざしと、いまのアメリカが抱く日本観は近似値だ。耐えられないほど軽い存在だと考えれば、日米安保体制強化云々と、いちいち目くじら立てるのも馬鹿馬鹿しいではないか。

記者はなぜ東条英機の口の中を覗けたか…「むのたけじ 100歳の不屈 伝説のジャーナリスト」 

Posted by Ikkey52 on 14.2015 テレビ   0 comments   0 trackback
 在野のジャーナリスト「むのたけじ(武野武治)」といえば、あえて解説してみせる必要もない反戦思想の鬼だ。終戦の日、勤務先の朝日新聞をきっぱりやめた。よく「記者としての戦争責任を感じて」と但し書きがつくが、実際には「何も考えていなかった」と武野。ただ、昨日までと同じ紙、同じインキで、同じ新聞を刷って、果たしてどんなものが出せるか、想像がつかなかったとも回想する。

 NHKがETV特集「むのたけじ100歳の不屈 伝説のジャーナリスト 次世代への遺言」と題してドキュメンタリーを編んだ。ほぼインタビューの力強さだけで、これだけ番組をひっぱることができるという見本のような一作だった。

 足と目は弱っているものの、武野の頭脳は明晰そのもの。歯はとっくにないが、滑舌・発音ははっきりし、声量も衰えない。堂々たる健啖家でもあった。耳も悪くないようで、朝日に転じる前の報知新聞記者当時の昭和15年、自ら衆院本会議場の記者席で直に聞いた斎藤隆夫のいわゆる反軍演説の録音に聞き入る。すでに軍部に完全屈服していた立法府で、猛烈なヤジのなか、ただひとり選良としての矜持を貫いた人物について、「自分と同じくらい背の低いジイさんだった」と、20代半ばの率直な受け止めを何ら粉飾することなく、そのままサラリと語ることの出来る100歳。武野の観察眼は地べたを這う社会部記者の真骨頂だ。
 
 政権を担っていたころの東条英機は、人々の暮らしぶりを確かめようとして、ときどき庶民の街を歩き回った。視察先で武野が東条の話に耳をそばだてると、言葉が聞き取りにくい。調べると入れ歯の不具合らしいとわかった。こぼれ話風の記事にしたところ、さっそくその筋から「書いた記者は誰だ!」と怒鳴り込まれ、呼び出しをくらった。出頭すると激怒した東条本人が出てきて、口を開けて見せる。入れ歯の具合は上々だ、ウソを書くな、というわけだ。武野のユーモラスな回想から、万事に遊びというものがなく、四角四面にしか物事をとられない東条の一面がわかる。

 戦時中、記者として北支に特派された。日本軍政下のインドネシアにも駐在した。北支では中国人の抵抗精神の不屈を見、インドネシアではアジア解放のお題目のまやかしを知った。秋田の田舎では、夫の名誉の戦死を知らされたばかりの妻にコメントを求めるような残酷な役回りも務めた。本社では東京大空襲の壊滅的惨事に「被害僅少」と見出しを立てる新聞社の退廃も噛みしめた。そうした体験をひっくるめて背負いながら武野は、戦後、郷里の秋田で週刊新聞「たいまつ」を出し続けた。「あなたは自由をまもれ。新聞はあなたをまもる」をスローガンにして。

 番組は各地で武野が行った講演の様子を横糸に使った。どれも熱弁で聴衆が引き込まれているのがよくわかった。特に武野の反骨の原点が、軍国主義行事にマチの医師がすべて駆り出されてしまい、すぐに手当が必要な3歳の長女の命を救えなかったことだ、という話は胸に迫った。
  
 番組に朝日新聞元記者の河谷史夫が唐突に二度ほど登場し、コメントを述べるシーンがある。『新聞記者の流儀 戦後24人の名物記者たち』の著者だったからだろう。ノンフィクション番組の作り手は取材準備として様々な文献資料を渉猟する。この本もそのひとつで、制作者として感じるものがあったのだろう。だからといって、本の著者インタビューの挿入が、全体構成のなかで調和するとは限らないのがドキュメンタリーづくりの奥の深いところ。せっかく取材したものも没にする勇気が、作品の完成度を高めることなど、この番組の制作者ならとっくに知っていたはず。その一点だけは惜しまれてならない。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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