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旧態依然のロシアの辺地…映画「裁かれるは善人のみ」

Posted by Ikkey52 on 11.2019 映画   0 comments   0 trackback
 ロシア映画「裁かれるは善人のみ」で展開されるストーリーは少しの救いもない。邦題でいう「善人」とは、特別なモラリストのことではなく、欠点だっていくつも克服できていない、ごくごくありふれた中流市民のことだ。

 バレンツ海に面したさびれた町で、自動車修理業を営む中年男コーリャは、若く美しい妻リリアと、死別した前妻の子ロマの3人家族。反抗期のロマがリリアに懐かないのが頭痛の種だが、先祖代々受け継いだ800坪を超す広大な土地に、自分が建てたガレージ付きの見晴らしのいい家に暮らす。家は少し古くなったが、気の置けない人間関係に不満はない。仕事の依頼もひっきりなしだ。
 市がゴーリャ一家の土地を二束三文で収用する話が持ち上がり、コーリャは訴訟を起こす。軍隊時代の部下で、モスクワの弁護士ディーマを助っ人に、典型的な悪徳市長のヴァディムと対決する。しかし訴訟には敗れた。リリアは魔が差したようにディーマと関係を結び、コーリャもそれを知る。閉塞感に捉われたリリアは自殺するが、市長一味はコーリャに妻殺しの罪を着せ、懲役15年の刑が下る……。

 映画の原題は「リヴァイアサン」。意味深長だ。
 王権が神から授けられた不可侵のもの、という王権神授説を覆したのが、17世紀イギリスの市民革命期を生きた政治哲学者トーマス・ホッブズの主著『リヴァイアサン』だった。のちの民主主義への道を拓く卓見のひとつとして、高校教科書に載っている。本来、リヴァイアサンとは旧約聖書のヨブ記に出てくる巨大な海中生物で、悪魔の同義としても使われる。ホッブズは「すべての人から自然権を全面的に譲渡された国家(コモンウェルス)」をそう呼んだ。
 権力行使を預けた先が腐っていたらどうなるのか。それは、まさに怪物そのものではないか。妻を失ったコーリャが酒浸りのある日、道で行き会った神父からヨブ記の一説を聞かされるが、コーリャは言い返す。映画に登場する「善人」たち全員が参加した日帰りのバーベキュー旅行で、射撃の腕比べが行われるが、ロシア革命以来の歴代指導者たちの古い肖像画が的として使われていた。唯一、的として登場しなかったプーチンの肖像画は、市長室の壁からヴァディム市長を見下ろしていた。

 映画へのアプローチとして、いつの時代か、場所はどこか、を最初に考えてしまう癖がついているのだが、場所が広大なロシアのどの地方なのか、最後まで判らなかった。バレンツ海は北極海に接する北の果てだが、海流の関係でそう気温が低くないのだ、と初めて知った。荒涼とした風景、さびれた民家の佇まいは、北方領土を思わせた。ただ、氷河でそぎ落とされたような岬などスケールの大きさがまるで違う。ラストのシーンで鯨の巨大な骨が見える。リヴァイアサンの象徴だろう。
高邁な作品には違いないが、超長回しにはいささか疲れた。
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欧州流入難民の偽装家族は…映画「ディーパンの闘い」

Posted by Ikkey52 on 10.2019 映画   0 comments   0 trackback
  例え数万語の言葉を費やしても描ききれないものを、映像作品が見事に描いて見せることがある。フランス映画「ディーパンの闘い」を観て、あらためてそう思った。

  どんな内容なのか、「骰子の眼」(http://www.webdice.jp/dice/detail/5027/)がまとめたあらすじが実に適切、かつ簡素なので、以下、そのまま借りる。
  「内戦下のスリランカを逃れ、フランスに入国するため、赤の他人の女と少女とともに“家族”を装う元兵士ディーパン。辛うじて難民審査を通り抜けた3人は、パリ郊外の集合団地の1室に腰を落ち着け、ディーパンは団地の管理人の職を手にする。日の射すうちは “家族”として生活し、ひとつ屋根の下では他人に戻る日々。彼らがささやかな幸せに手を伸ばした矢先、新たな暴力が襲いかかる。戦いを捨てたディーパンだったが、愛のため、家族のために再び立ち上がる」。

  「スリランカ」と「フランス」というミスマッチがみそだ。監督したフランス人のオディアールは、イギリスBBCがスリランカ内戦をテーマに制作したドキュメンタリーを観て、この映画製作を思い立ったそうだが、それまでスリランカといわれても、紅茶のイメージしかなかった、と語る。ソルボンヌ大学で文学と哲学を修めたような知識人の監督にして、その程度の理解だ。フランス、イギリス、ドイツなどのヨーロッパの大国は、第三世界から多くの移民、難民を受け入れ、彼らを社会の底辺の労働力に取り込んで成り立ってきたが、言葉の関係もあって、それらの国に集まるのは、かつて植民地支配した地域の出身者が多い。スリランカを含むインド亜大陸の移民、難民はイギリスと紐づいており、フランス人がよくわからないのも不思議はない。だからこそ、ディーパン、妻のふりをするヤリニ、その娘で通す小学生のイラヤルは、いっそう孤立感を深める。

 荒れ果てた集合住宅が移民ギャングの巣窟になっている図は、たとえばマルセイユ郊外の話としてずいぶん前から伝わっていた。パリのそれにはついては多くを知らないが、おそらく大都市だけにもっとひどいのだろう。暴力沙汰、殺人があっても、事実上の無警察状態だ。被害者も加害者も所詮は根無し草たち、放っておけということか。

 スリランカの生まれといっても、3人は少数派のタミル人。ディーパンが所属したのは、分離独立を目指す反政府軍事組織「タミル・イーラム解放の虎」だった。同組織が敗北することで内戦は終結したのだが、再挙兵の企てがあり、連絡をつけてきた元上官がディーパンにも軍資金集めの協力を強いてきた。難民には違いないが、いまはパリで職を得ているディーパンは、殴る蹴るされながら頑固に拒絶する。その夜、ディーパンは珍しく深酒した。気づけば酔いに任せて、兵士時代親しんだタミル語の軍歌を高歌放吟していた。自分で自分を鼓舞せずにはいられなかったのだろう。
 以来、ディーパンのなかで何かが決壊した。戦士として政府軍との苛烈な戦いを潜り抜けて、自分のいまがあるのではないか。なにを恐れている――ギャングどもに好き放題やられることに甘んじていていいのか――と。ディーパンはゴミ溜めのような集合団地に巣食う悪たれどもをあたらしい敵に見立て、もう一度、戦士として命がけの戦いをしようと決意する――。

 2015年のパルムドール受賞作。オディアール監督は事前にパリのタミル人のコミュニティに取材し、同じタミル人同士でも、兵士と普通の住民との距離は決して近くないと知ったそうだ。冒頭に近い難民キャンプのシーンで、難民船に乗り込みたい独身女のヤリニが、家族持ちを装うために、身寄りのない子供を必死に探し回り、見つけ出したのが9才のイラヤルだった。難民という言葉のなかに、当たり前のように孤児がいて、偽装家族も数限りないのだと思い知った。

一流紙の元記者が陥った功名心の罠…映画「トゥルー・ストーリー」

Posted by Ikkey52 on 03.2017 映画   0 comments   0 trackback
 記者たちの世界では、野心を漲らせ、功名心をむき出しにしても、それだけで人格が疑われるようなことはない。ある意味、珍しい商売だ。一般的な読者、視聴者が複数メディアを虫の目で毎日チェックしているわけはなく、したがって、どの社の報道が一番速かったのか、一番深かったのか、などは所詮自己満足だという批判がある。その通りだが、かといって、鎬を削る競争が優秀な記者を育てる苗床となるのも一面の真理ではある。

 2015年の米映画「トゥルー・ストーリー」は、身から出た錆で一流紙記者としての未来を棒に振った男が、一発大逆転の再起を狙って、拘置所で裁判を待つ妻子殺しの容疑者に近づいたものの、重苦しい心理戦に巻き込まれ、きりきり舞いさせられる。実話に基づく。

 マイケル・フィンケルは風采こそ上がらないが、ニューヨークタイムズで今売り出し中の若手記者。最近もアフリカまで出かけ、農場で奴隷労働さながらの体罰がまかり通っていると、筆鋒鋭く追及した署名記事を掲げた。その反響は思いのほか大きく、気をよくしたフィンケルは、ひょっとしたら何かのノンフィクション賞が獲れるかも、とひそかに己惚れる。ところが編集局は、後日、記事の捏造に気づく。フィンケルは厳しい査問のすえ社を追われ、雪深いモンタナの田舎に帰って悶々とした日を送る…。

 やがてフィンケルは、オレゴン州で妻子殺しの容疑者として拘置所に繋がれ、裁判を待つ身のロンゴという男が、逮捕前メキシコに逃亡中、自分の名と当時の肩書を騙っていたのを知って興味を持ち、接見に向かう。「なぜ自分の名前を?」と尋ねる初対面のフィンケルに対して、ロンゴは「あんたの記事が好きだったんだ」と素朴に応えたが、その一言は賞賛が大好物であるフィンケルの心のツボを見事に射抜く。また、素直に事件の真相を騙ろうとしないロンゴの思わせぶりな態度も、フィンケルの取材マインドに火をつけた。

 彼は頭を巡らせた。「ロンゴは事件に関して言うに言えない秘密を抱え込んでおり、真相は警察や検察官の筋読みとは違っている。自分の取材力をもってすれば、ロンゴは心を開き本当の話(トゥルー・ストーリー)を打ち明けるだろう。それが冤罪ともなれば出版に値するし、本は必ず売れる。ジャーナリストとして自分は華々しく再出発できる」。そう単純に信じて、のめり込むようにロンゴとの接見を重ねて行くうち、次第に野心の鬼と化すのだが、蓋を開けた裁判はフィンケルが予期しない方向へ…。

 演出は無骨そのもので、隠し味やどんでん返しがあるわけではない。冒頭近く、フィンケルがニューヨークタイムズの編集幹部から受ける査問で、記事捏造の嫌疑を認めながら、「読者が喜ぶ記事を書いただけだ」と虚しい言い訳をするシーンがあるが、それが唯一、伏線らしい伏線になっている。小から大へ、企業転職を繰り返すことで出世の階段を上るアメリカの若い活字ジャーナリストのヒエラルヒーにあって、ニューヨークタイムズの記者職はいわば頂点のひとつ。上昇志向が強い記者たちのなかでも勝ち組だ。だから、その地位を維持するために相当なプレッシャーを感じるはずで、ひょっとしたら、真実の追求よりも、読者の受けを優先するような倒錯に、つい足を取られてしまうのだろうか。

2015年のパリで小津に一本撮らせたら?…仏映画「愛しき人生のつくりかた」

Posted by Ikkey52 on 10.2017 映画   0 comments   0 trackback
 学生時代に通った映画学校で、フランス語字幕付きの日本映画をずいぶん観せられた。フランス語字幕が付いていたのは、なんでも学校がパリの高等映画学院と人のつながりがあり、そこからフィルムを借りているためだと聞いた。フランス語が読めるわけでもないのに、洋画を観るときの癖で、つい字幕を追ってしまうのには辟易した。ただ、そこで小津作品を観た記憶はない。当時はヌーベルバーグの残照がまだ尾を引いていて、その作り手たちがこぞって小津をリスペクトしていていたことだけは、かろうじて知っていた。

 小津安二郎の代表作「東京物語」ほど、内外の映画評論家に語り尽くされた作品も珍しいが、お前が書いてみろといわれたら、たぶん頭を抱える。描かれているのは、1950年代初頭のありふれた日本の中流家庭のエピソードの数々だが、わかりやすい具象画に見えながら、実は哲学的な抽象画だからだ。2016年のフランス映画「愛しき人生のつくりかた」の感想を語るのも、同じ理由で厄介だ。夫を失った老婦人が墓地の埋葬に立ち会うシーンで始まるこの映画は、老婦人が死んで家族に見守られて埋葬されるシーンで終わる。なにしろ、人生の意味を語っているのだ。

 全体の語り口は、「東京物語」同様に平易このうえない。フランス庶民のありふれた日常が描かれる。夫のいなくなったパリのアパルトマンで、85歳になる老婦人マドレーヌは自らの人生を振り返る。3人の息子を育て上げ、不幸ではないが、かといって満ち足りていたかどうか。郵便局員として無事勤め上げた長男のミシェルから見れば、独り暮らしになった母のことは新たに増えた心配の種だ。ただでさえ、退職後の生活に夢が持てない。妻も冷たくなったように思える。

 ミシェル夫婦には作家志望でアラブ系の友人と2人で気ままな共同生活を送る大学生ロマンがいる。心優しい若者で、プチ・ホテルで夜のアルバイトに精を出す傍ら、祖母のアパルトマンを訪れては相手をする。マドレーヌ自身も孫息子に癒される。ミシェルは弟たちに説いて、母のマドレーヌを老人ホームに入れるが、マドレーヌは不満だらけ。息子たちが彼女のパルトマンを勝手に売却したことを知ると、ホームを抜け出し行方をくらます。長男ミシェルがパニックに陥るなかで、孫ロマンは、マドレーヌが出したハガキの消印から手がかりを得て、ノルマンディ地方に向かう。そこには彼女が幼少期を送った小学校があり、戦争中の疎開でそこを卒業できなかったことに彼女が心を残していたことを知る…。

 それにしても、普段着のくフレンチ・コメディというやつは、どうしてここまで小粋なのだろう。セリフにしても、妻となった女性を口説く際、ミシェルが吐いたという殺し文句「君は美しすぎる。二度と会いたくない…」。祖母を探す孫ロマンが、立ち寄ったコンビニで「どうすれば運命の女性と出会える?」と気まぐれに尋ねたとき、レジに立つおっさんが垂れた宣託、「待つことなく念じれば24時間以内に会える」など、この民族のセンスはちょっと真似できない。

 定年に達した郵便局員がよく似合った俳優は、ルコントの超名作「仕立屋の恋」の主演ミシェル・ブラン。「東京物語」の小津は似た役どころを置いてアクセントにしようとは思わなかったが、ルコント映画が求める偏執者の静謐と生真面目さを、最大限に表現した若い時期の禿げ頭は、齢を取ったらこう使う、という手本のようだ。かつて仕事で一度だけ足を伸ばしたノルマンディ地方の素朴な人情を思い起こしながら、封切り後、フランスで100万人を動員したという低予算作品の秀作を堪能した。

”恐怖の質”考…墺映画「グッドナイト・マミー」

Posted by Ikkey52 on 12.2016 映画   0 comments   0 trackback
 日本は世界に誇るお化け大国だが、怖いもの見たさという人間感情は万国共通らしく、欧米各国にも様々な伝説、説話、怪奇小説の類いが残されてきた。ドラキュラやフランケンシュタインは、いってみれば映画開花期が生んだ偉大なホラー・スターの欧米代表だ。

 アメリカの映画やTVドラマを考えてみると、閉鎖された精神病院がホラーの背景に選ばれるケースが珍しくないのに気づく。医療行為というれっきとしたサイエンスの現場を、恐怖の舞台装置として好んで受け入れる国民性が面白い。

 実際、1960年代のアメリカでは、精神病者を病院での拘禁から解き放ち、地域社会でケアすべく国策の大変更を図ったことから、多くの精神病院が閉鎖の憂き目にあった。ただ、その政策は結局根付かず、強制退院させられた患者たちの多くはホームレス化した。もとよりアメリカの精神病院は宅地から遠く離れた郊外に立地するところが多かった。閉鎖され荒れてしまえば買い手もつかない。そこに、行き場のない患者たちが入り込んで無断で住みつくケースもあり、迷惑がられ、ときには恐れられた。

 他の医療分野に比べ、精神医学にはまだ未解明部分が多い。アメリカ社会では、科学でわりきれないことは、宗教でわりきろうとする。宗教でもわりきれないことは、悪魔の仕業と解釈するしかない…。病院跡地に打ち捨てられたセピア色の家族写真や、使い古されたぬいぐるみに、アメリカ庶民が亡者の狂気を連想するのは、そうした心性によるのか。

 怪しい病院跡地も亡者や怪物の影も出てこないオーストリア製ホラー映画「グッドナイト・マミー」は超低予算作品。出番のほとんどを母と子(男の子の双子)の一家3人が占め、その舞台は3人が住む郊外の超モダンな一軒屋にほとんど限定されている。正面に美しい湖を望む一軒家は、見渡す限りのトウモロコシ畑と隣接し、双子は自然のなかで転げまわって遊ぶ。

 冒頭からインパクト十分なのは、ミイラ並みに包帯を巻きつけた母親の顔。交通事故に遭い退院してきたばかりだ。見た目の異様さに、素直に胸に飛び込めない2人のわんぱく盛り。優しく動物好きだった母親の性格も残忍なものに一変していた。双子の少年たちは包帯女が実の母ではなく、他人の成りすましではないかと疑いを深め、問い詰めようと策を練るが、包帯女と対峙するとき、なぜかいつも双子の片割れの影が薄い。包帯女のほうも、まるでその子の存在が見えていないかのようにふるまう…。

 ネタバレを恐れずにいえば、最初から嘘だったとか、最初から死んでいたとか、語り口自体にどんでん返しがあるサイコ・スリラーの系譜といっていい。この映画全体を通して、少年たちに妙な影が差しているわけではなく、むしろ無心で遊ぶところなど子供らしくて実に健康的なのだが、問題は双子であること。「シャイニング」をはじめ、双子を不気味なものとして捉えたホラー映画は過去にいくつもあり、洋の東西を問わない。双子の兄弟の精神的繋がりは科学で説明できないほど密接な場合があるという。テレパシーというか、死後交信というか、そういうものに対する想像力を、観る側は求められるのだろう。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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