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映画は音楽にだけ嫉妬する…塩田明彦の『映画術』

Posted by Ikkey52 on 04.2016 映画   0 comments   0 trackback
 映画理論の本というのは不思議なもので、手に取るまでにけっこう長く逡巡するが、読み始めると一気呵成…、そんな傾きがあるような気がする。原体験として観た映画が語られている場合、頭への染み込みが早いからだろう。

 デジタル・ディバイスの発達で、本格的映画ファンを自称する人たちの観賞本数は半端ではなく、到底自分など太刀打ちできない。とはいえ、それなりに映画館の暗がりを愛してきた者として多少の感想を述べたい。塩田明彦の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』は俳優志望の学生を相手にした講義録だ。

 塩田は学生たちを飽きさせないように、表現を工夫する。たとえば、世界三大「気絶する女」監督というのが出てくる。塩田の独断では、溝口健二、トリュフォー、ジョン・カサヴェテスの3人がそうだ。「西鶴一代女」での田中絹代の動きは、最後は気絶してもしかたがないと納得できるようなものになっていたという塩田。確かに演出の根幹は演者の動線かもしれない。

 顔を、表情としてではなく、ひとつのマテリアルとして露出させると、何かとてつもなく不気味な効果が出る。「サイコ」を撮ったヒチコックが代表格だが、シャブロルやジョセフ・ロージーなどもこの手法を好み、怪奇映画的な感触に繋がった。「サイコ」で演じた変質者のイメージが強すぎた俳優アンソニー・パーキンスには、以降、同じような役しか回ってこなくなった、という寄り道も楽しい。

 「映画は音楽にだけ嫉妬する」、というのもわかる気がする。意表をついて例に挙げられていたのは東映任侠映画。様式美の鬼、加藤泰の「緋牡丹博徒シリーズ」だ。「避けようもない結末へ向けて、さまざまな声と声が出会い、絡み合い、罵り合い、囁き合い、裏切り合い、怒鳴り合う。そういう『声』の劇として、(こうした映画が)存在している、という強い印象があるんです」と塩田はいう。

 この本の全体構成は、動線、視線と表情、衣装、声や音楽など、映画の表現要素を7つのテーマに分け、講義一回分でひとつのテーマを論じきるスタイル。毎回、テーマに相応しい複数の監督の名があげられ、彼らの作品の印象的な部分を静止画に分解し、微細に比較検討して行く。残念ながら塩田本は自分にとって、一気呵成に読み進むとまではいかなかった。映画美学校アクターズ・コース在校生のための連続講義の採録だから、話し言葉調になっている。話の途中で、学生たちの表情を読み、専門用語がわからないようだな、と思えば、本論の腰を折って、用語解説が入る。念押しも頻繁に出てきて回りくどいところがあった。

「汽水域」時代のスペインを描く超傑作…映画「マーシュランド」

Posted by Ikkey52 on 03.2016 映画   0 comments   0 trackback
 人物や風景に限らず、場面の空気まで描き出す映画があれば最高だと思う。スペイン映画「マーシュランド」には、全篇にわたって時代や土地の空気が濃厚に横溢していた。国内で高い評価を受けるのもわかる。

 1980年、スペイン南部・アンダルシア地方の湿地帯にある田舎町。祭り期間中にティーンエイジャーの少女姉妹が失踪し、若手で正義感のつよいペドロと中年のフアンの刑事二人組が行方を探す。姉妹は遺棄死体で見つかり、どちらも強姦され、拷問の跡も見られた。猟奇の手口だ。同じ町で姿を消した別の若い女性もバラバラ死体で見つかり、連続殺人事件の色が濃くなる。あえて幹となるストーリーをひとことで言えば、猟奇的連続殺人犯を追う刑事物語なのだが、この映画の一筋縄ではいかないところは、暗喩の多さだ。

 都会に残してきた身重の妻をしきりに気に掛ける堅物のペドロからすると、フアンは際限もなく酒を浴びるうえ、酒場で女とみればちょっかいを出さずにはいられない好き者。刹那主義にしか見えない。聞き込み先ですぐ暴力的になり、憲兵(フランコ体制の象徴)に宥和的なところもいけ好かない。フアンもまた都落ち組だが、持ちつ持たれつの関係になった記者からペドロは、フアンに良からぬ過去があると知らされる。旧秘密警察にいて、拷問のプロだったと…。実は、フアンはフランコの旧体制、ペドロは新体制の暗喩になっているのだ。

 時代背景がいかにも微妙だ。1980年のスペインといえば、内戦以来、強権支配を続けた独裁者フランコの死から5年。上からの民主主義が緒に就き、新憲法も成立したが、反フランコ派はまだ政権と距離を置いていた。海水と淡水の入り混じったいわば汽水域の時代だ。都市は軛から解き放たれたように爆発的発展を見せるが、対照的に田舎は変化の波に取り残され、古い秩序の残滓が人々の上に重く垂れこめていた。

 廃屋内部の白壁に大書きされた「フランコ万歳」の文字。川に浮かべた漁船の上で、日がな川魚のハラワタを捌く女占い師の不吉な忠告。形だけは共和国時代を思わせる工場での賃上げ要求団交と、フランコ時代に覚えさせられた工員たちの諦めのよさ。少女性愛とSMに使われると知りながら場所を貸し、カネのために口を噤む猟師宿の女将。高利貸しからの取り立てに怯える被害者姉妹一家の貧困と、父親の麻薬取引、母親の虚無。刑事二人の捜査を冷ややかに突き放す熱のない上司…。それらは全て、新しい時代の分け前にありつけない田舎町の苦悩の暗喩として効果を挙げている。

 結局、犯行の黒幕は誰なのか。ネット上の映画批評もずいぶん票が割れている。オープニングのタイトルバックは、人間の脳内構造を思わせる構図が延々続き、最後に湿地帯の空撮に溶け込む。アタマを使え、と作り手は観客を挑発しているのだ。ならば言ってやろう。これは無限に終わらないメビウスの輪だ。奴が黒幕だと決め込んだ瞬間、いや、そうではないと反論可能な構成になっている。あくまで客観描写を使いながら、黒澤の「羅生門」のような多元性、解釈の余地を残しているのだ。その割り切れなさこそ、この映画の真骨頂であるように思えるのだが。

必然性を軽んじたばかりに…映画『われらが背きし者』

Posted by Ikkey52 on 08.2016 映画   0 comments   0 trackback
 ロシアン・マフィアの残忍さを導入部で描いて、「ツカみ」としては十分な効果を上げていた映画『われらが背きし者』。ただし、背景がどことなくロシアっぽくない。北欧くさいなと思ったら、案の定シーンのロケ地はフィンランドだった。金満マフィアの棲む現代ロシアの舞台背景は、すでに無国籍化してしまい描きにくく、活動屋泣かせだ。

 ジョン・ル・カレの小説を原作にしていて、タイトルまでそのまま。しかし『われらが背きし者』では、いかにも地味で(明日には忘れそう)、PRはさぞかし厳しかろう。内容は、いわゆる「素人巻き込まれ型」のサスペンス。腕利きどものスパイ合戦を期待すると馬鹿を見る。

 ロンドンの大学で詩学を講じる若い貧乏学者のペリー(ユアン・マクレガー)は、法廷弁護士として稼ぎのいい黒人妻ゲイル(ナオミ・ハリス)との仲がぎくしゃくしている。関係修復を兼ねて2人はモロッコを旅するが、ことはうまく運ばず時間が過ぎる。仕事の電話に忙しいゲイルはレストランでの夕食の席を中座したまま戻らず、ひとり取り残されたペリーは、居合わせた恰幅のいい男ディマに空虚な胸の内を見透かされ、ディマがロシアン・マフィアの大物とも知らず、誘われるまま彼らのパーティに出て、豪勢でエロチックな一夜をすごす。

 翌朝もペリーは、押しの強いディマのテニスの誘いに乗り、夫婦にとってモロッコ最後の夜だというのに、ディマの娘の誕生バーティにまで呼ばれて、妻のゲイルを苛立たせる。帰国を前にしてペリーは、ディマから組織のマネーロンダリング情報の入ったUSBを強引に渡される。ロンドンの空港でMI6(イギリス秘密情報部)に渡して欲しい。自分と家族の命がかかっているから、とディマに懇請され戸惑うペリー。結局頼みを聞いてしまう…。 

 小説にしろ映画にしろ、エスピオナージ・サスペンスの生命線は、微細な一点さえおろそかにしないリアリティだろう。しかし、この映画の演出には必然性を疑わせる明らかな瑕疵がある。例えば、ディマにとってペリーは、実直で誠意もある男に見えたとはいえ、アフリカの観光地で偶然に出会ったにすぎない人物に、果たして一家の命と等価であるUSBを託すか。逆にペリーにとってディマは、虚しい旅先で束の間の気晴らしをくれた裕福な男だったとしても、スパイもどきの活動の片棒をあえて担いでやるほど恩義を感じる相手だったのか…。

 『われらが背きし者』が全体として重厚さを欠くのは、そこを丁寧に描くべきなのに、描けていないからだ。あとはお定まりの逃亡劇、チープな立ち回り、ヘリコプター爆破、官僚の裏切りなどなど、ダメなB級映画の坂道を転げ落ちてゆくだけだ。ル・カレは自らもかつて一員だったMI6を描くとき、妙な肩入れは絶対にしないのだが、それにしてもダミアン・ルイス演じるMI6管理官のヘクターは影が薄いし、役柄に似合いもしない。ルイスといえば、人気テレビドラマ『HOMELAND』シリーズ初期のキーマン、ブロディを演じてブレイクした人だが、伊達メガネをかけてもブロディの残像が消えない。俳優にとって当たり役とは後続の仕事を邪魔する両刃の剣なのかもしれない。

「事実は小説より奇なり」と言えるのか?…映画『ニュースの真相』

Posted by Ikkey52 on 14.2016 映画   0 comments   0 trackback
 大学で映像ジャーナリズムを学び、小規模なテレビ局の補助職に潜り込む。契約記者として独り立ちし、仕事ぶりをアピールしながら、より大きな職場めざし次々と移籍を繰り返して行くのが、米テレビマンの典型的なキャリア・パスだ。彼らのゴールは三大ネットワークの看板ニュースショーでプロデューサーを務めること。ただ、せっかく上り詰めた地位を維持するのも視聴率次第。立ち止まれば、直ちに追い落とされる。高給の代償はストレスの無限地獄だ。映画『ニュースの真相』は、そんな一握りの勝ち組で、CBS「60ミニッツⅡ」に実在したプロデューサー、メアリー・メイプスと彼女の調査報道チームが味わう、一瞬の愉悦と取り返しのつかない敗北の物語だ。 

 現職のジョージ・W・ブッシュに民主党のジョン・F・ケリーが挑む04年11月のアメリカ大統領選挙を前に、メアリー率いる調査報道チームはブッシュの軍歴詐称を暴露する超ド級の情報を掴みかける。選挙最大の争点はイラク戦争の評価であり、ブッシュが若き日、ベトナム行きを忌避するため親のコネで州兵空軍に入り、理由不明の離隊期間まであったとなれば、大統領適格性が疑われる。まして、ライバルのケリーはベトナム戦争の英雄。報道はブッシュ陣営に決定的ダメージを与える…。
 取材の詰めを急ぐなかで、選挙が迫る。投票日が近付くと、マスメディアは政治的公平性に重心を移し、独自報道を自粛するのが常道だ。CBS上層部が示したギリギリの放送予定日は投票日2か月前。メアリーは不満だが呑み込まざるを得ない。

 結局、スクープは伝説のアンカーマン、ダン・ラザーのスタジオ仕切りで放送され大反響を巻き起こすが、祝杯の夜が明けると、誤報ではないか、との視聴者意見が次々に寄せられる。チームが最大の寄り所にした軍の内部資料「キリアン文書」は偽物だというのだ。筆跡を調べた専門家は本物だと鑑定するものの、原本ではないため、判断には留保がつく。メアリーやラザーらが再取材に乗り出すと、「キリアン文書」のコピーの提供元である元州兵の農場主が、前言を翻した。彼が告白したコピー入手の真相は限りなく陰謀めいていた。

 調査報道、とりわけ現職大統領を政治的に葬るかもしれない大スクープとなれば、時間のバイアスは大敵だが、有権者の利益を考えれば、選挙後の報道では意味がない。重要情報の裏取りを面談抜きの電話取材で済ます危ないシーンが再三描かれる。ラザーを含めてもわずか5人のチームに収集した情報を慎重に吟味する余裕はなく、インサートビデオの編集のアップさえ本番わずか2分前という綱渡りだった。 

 今年は奇しくもアメリカ大統領選挙の年。『ニュースの真相』日本公開のタイミングとしては絶妙だが、率直にいって中味は物足りない。メアリーの自著『大統領の疑惑』に基づく実録だったため、映画化権にしばられ、自由な表現が阻害されたせいか。特に誤報が動かぬものになったあとの構成からは、前半に漲っていた緊張感が嘘のように消え、メアリーたちがまるでイジメの被害者のように描かれるに至っては、鼻白むしかなかった。

 メアリー役のケイト・ブランシェットは熱演、ラザー役のロバート・レッドフォードは好演といっていいだろう。「辣腕女性プロデューサー映画」という範疇で考えると、ケイト・ブランシェットの遠景には、『ネットワーク』のフェイ・ダナウェイが浮かぶ。『ネットワーク』の女性プロデューサーは、報道の矜持など一顧だにしない視聴率の鬼だった。自由な創作が可能ならば、そんな設定のほうが面白かった。「事実は小説より奇」といえない場合もあるわけだ。

映画「FAKE」…守さんと達也さんの茶番劇

Posted by Ikkey52 on 08.2016 映画   0 comments   0 trackback
 ドキュメンタリーという映像表現は、事実の主観的切り取りなのだから、必ずしも客観的でなくともよい。だからといって、スターリンを神格化する手段としてのニュース映画を、ドキュメンタリーとは呼ばない。プロパガンダの罠からドキュメンタリーを救うのは、ただ作家自身の厳しい内省であり、具体的には、「自己満足に陥っていないか」、「素材に酔っぱらってはいないか」という間断のない自問だろう。その点、森達也が監督した映画「FAKE」は、果たしてどうだったのか。

 内容を端的にいえば、あの佐村河内守とその妻香が住むマンションへの密着記だ。ナレーションはなく、主に佐村河内夫妻と森のやり取りで綴られる。取材開始にあたり、森は佐村河内の逡巡を抑えようと次のようなエクスキューズを発する。「僕は新垣さんにも神山さんにも会っていませんから」と。新垣さんとは、佐村河内のゴーストライターをしていたとされる新垣隆ことであり、神山とは、新垣の独占インタビュー記事『全聾の作曲家はペテン師だった!』を発表してこの問題に火をつけ、大宅賞(雑誌部門)を受けた神山典士のことだ。

 取材が続くうち、森と佐村河内は「守さん」、「達也さん」と呼びあう仲になる。「信じてなきゃ撮れないですよ。心中ですよ」と無防備なことを森は口にするし、妻の香も森について「同じ船に乗っているようなものだから」と身内意識を隠さない。この異様なベタつき感はなんだろう。ドキュメンタリー制作論としてよく語られる「取材者と取材対象の適度な距離感」などどこ吹く風だ。例えば東海テレビのドキュメンタリー映画は、世間から指弾された人物を好んで取り上げるのは森と同じでも、この距離感の取り方が絶妙だ。

 騒動後もついてきてくれた妻への愛を佐村河内に語らせ、涙ぐませるシーンもある。「実は良い人、良い夫婦」の方向に提灯を持つ演出意図があざとい。そうまでして佐村河内の肩を持つならば、彼の発言に何度も怨嗟の的として名前が出る新垣と神山に、反論の機会を提供するのは表現者としての常識だろう。この作品がドキュメンタリーとして成立するか否かの分水嶺は、まさにそこだった。しかし、森は2人を深追いせずアプローチをあきらめる。森によれば、新垣は事務所の拒否、神山は多忙が理由とのことだが、少なくとも取材開始から映画の公開まで、時間はたっぷりあった。

 ドキュメンタリー未満の作品をドキュメンタリーらしく見せるため、森は映画の最終盤に仕掛ける。佐村河内にシンセサイザーで「作曲」をさせたのだ。終始、カメラの眼が監視する。できあがった「作品」に妻も目を閉じてじっと聞き入る。さあどうだ、これでもFAKEか、と森はいいたいのだろうが、佐村河内には、かつてアマチュアバンド時代にシンセで作曲した経験があるのは周知の事実。しかもシンセでは音源次第で、クラシック風なオーケストレーションを機械が勝手にやってくれる。ピアノが弾けなくても、楽譜が読めなくてもいい。観客中、そうしたDTM(デスクトップミュージック)のメカニズムを知る人は圧倒的少数派だろうから、佐村河内は得点を稼ぎ、隠し玉の効果はあったかもしれない。しかし、事務所のプロフィールに「10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなし」と書いて金儲けに利用した男を、自分はペテン師と呼ぶし、その認識は今後も揺らぐまい。
 
 それにしても森達也とは何者なのか。ノンフィクション賞の選考委員になったり、番組コンクールの審査委員に名を連ねたりするのは、何が評価されてのことか。どんな自負があって引き受けるのか。さっぱりわからない。文章や発言はヒューマニズムや人権に寄りかかった凡庸で稚拙なものだし、ドキュメンタリストとしての手腕にも疑問符がつく。ただ、「FAKE」に話を戻せば、人々の耳目を集めるために、計算づくで、世間の99%を敵に回した人間に一方的な肩入れして見せたとすれば、皮肉な言い方だが、森のマーケティング戦略は図に当たったことになる。映画館は混んでいたのだ。次回監督作ではショーンKにでも密着するのだろうか。  
  

プロフィール

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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