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祝いの席で弔辞を読むが如し…「君が代」の怪しい素性

Posted by Ikkey52 on 15.2015 音楽   0 comments   0 trackback
 国旗国歌法が1999年8月13日に公布・即日施行された結果、「君が代」は日本の国歌になった。「『天皇の治世』を奉祝する歌であり、『祝福を受ける人の寿命』を歌う和歌を元にしている」とウィキペディアにはある。
 どうも国民主権とは相いれないような気がするのだが、以下取り上げる研究者の指摘はもっとずっと衝撃的だ。即ち、「君が代」はそもそも寿ぎの歌ではない、柩を挽く者が歌う、いわゆる挽歌だというのだから…。そうであれば、「為政者の無知蒙昧により、祝賀の日に葬送の歌を歌うことを強制するのは、はなはだ奇怪な光景ではないか(横浜市立大名誉教授・矢吹晋)」。いや、奇怪というより笑い話だ。http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/05-04/050418yabuki-kimigayo.htm

 挽歌だったことを突き止めたのは、二松学舎大教授の溝口貞彦。溝口は、「君が代」にある、「さざれ石の巌となりて」という一句に疑問を持った。「岩が崩れて小石になる」というのなら自然現象としてわかるが、国文学の大家たちはそろって「小石がだんだん肥大し、大きな石になる」と解釈する。しかし、この受け止めはこじつけのように思えてならない。

 「さざれ石」とはなにか。「さざれ石」の「ささ」は「さざ波」や「さざれ波」の「ささ」だ。微風が野原を通りすぎるときの、サーサーという音の擬音語から、葉をゆるがす音を「笹」というようになった。古代人は微風の通過とともに、神の通りすぎるのを感じた。神の連想から、「さざれ石」も「巌」も、ともに霊石とみなされ、神性を帯びる。これは死んだ親あるいは祖先の「化身」とみなされる。人が一人死ねば霊石が一つふえることになる。「さざれ石の巌となりて」とは、個々の霊石としての「さざれ石」が集積され、巌という「霊石の集合体」を形成することを意味している。「巌」は『万葉集』では「墓地」あるいは「墓所」を指す。巌の語は、死者を墳に葬ったのち、その入口を大きな岩でふさいだことにもとづく。「巌に苔生す」とはなにか。苔は「再生、転生の象徴」である。

 次に、古歌はそれに先行する歌を本歌とし、その一部の語句をとり入れて作られるのがふつうだ。その本歌が賀歌ならば、本歌取りによって作られる歌も賀歌となる。本歌を挽歌からとって詠めば挽歌になる。「君が代」の「元歌」は、「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(『古今集』巻7「読み人しらず」)である。「我君」の箇所が「君が代」と変えられて『和漢朗詠集』に採録された。それが定着した。では、『古今集』巻7「読み人しらず」の本歌は何か、と溝口は考えた。すると、『万葉集』巻2の挽歌の一つ、「河辺宮人が、姫嶋の松原で、乙女の屍を見て悲嘆し作れる歌」が浮かぶ。「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」だ。現実には果たせなかった乙女の長寿・永生の姿を見ようとする挽歌だ。
 
 二つの錯誤が絡んでいる。第一に、紀貫之が古今集を編むにあたって、万葉集の挽歌のひとつを自分に都合よく解釈し、それから派生した歌を賀歌に分類してしまったこと。後付けで誤った解釈が流布され、江戸期まで祝賀の歌として歌われた。第二に、明治3年、薩摩藩が「天皇に対し奉る礼曲」を定めることになったとき、選曲をまかされた砲兵隊長(のち陸軍大臣)の大山巌が、白分の名前「巌」がよみこまれている「君が代」を強く推したことだ。かくしてとんでもない悲喜劇が生じることとなった。祝いの席で弔辞を読む羽目に陥ったのである。しかも、平成の御代になって、それを法律で定めてしまったというのだから。
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スウィート・ソウルの老いと円熟 ~ザ・スタイリスティックスの今

Posted by Ikkey52 on 12.2013 音楽   0 comments   0 trackback
 ブラック・ミュージック4人組のボーカルグループ、「ザ・スタイリスティックス」日本ツアー2013の初日に出かけた。9月にはハワイ、10月末からイギリス、アイルランドを回った。12月はクリスマスまで日本の舞台に立ち、1月14日からはまたワシントン、ニューヨークと巡る。ディスコ系イージー・リスニング風の曲が大半とはいえ、結成45周年のグループにはオリジナルメンバーが2人いて、連夜ステージで休みなく歌ったり踊ったりする。御年を考えるとたいへんな重労働だ。

 純白のスーツに全員が長身細見をつつみ、緩く揺れるだけで美しかったかつてのイメージはない。若いジェイソン・シャープの新加入はあったものの、全体として衰えは隠せない。バックバンドの座組みに、3台もキーボードを配したのは、落ちたコーラスの声量をさり気なくカバーする意図と見た。実際、ファルセットのリードヴォーカル、ハロルド‘イーバン’ブラウンに次いで、ソロをとる機会が多かったオリジナルメンバーのエアリオン・ラブは、高音になると声が伸びず、いかにも苦しそうだった。もちろん、黒人コーラスであり、お約束の振り付は全曲で見られるが、疲労を抑えるためか、鋭く速い動きは一切封印されていた。それでも最後まで楽しめたのは、たとえ’補助具’があったにしても、持ち味の熟成したハーモニーが健在だったから。季節柄、クリスマスソングを交えるなど旺盛なサービス精神も心憎かった。

 グループとしての息が長いのは、「You Make Me Feel Brand New」や「Can't Give You Anything」というエバーグリーンの大ヒット曲に恵まれていたためだろう。ソウルといっても「若さ爆発系」で出発していたらここまで持ったかどうか。スウィート・ソウルという方向性も長距離走を可能にした。それでも45年の間にはお定まりの内紛があり、頻繁なメンバーチェンジもあった。いまでも「New」の形容詞を冠した「スタイリスティックス」がもうひとつ並行して存在する。まるでビーチボーイズだ。本家の公式HPを見ると、チケットを買う前によく確かめてくれ、と注意書きがあって可笑しかった。「New」のほうは、本家の初代メンバーでファルセットを担当していたラッセル・トンプキンスJr個人の、お抱えバックコーラスという趣きらしい。

 本題を逸れるが、自分のブラック・ミュージック体験で忘れられないのは、いまはなき大手町の旧サンケイホールで「サム&デイブ」のステージを堪能したこと。中3の春、1人で出かけた。「Hold On, I'm Comin'」でブレイクしたR&Bの2人組「サム&デイブ」のステージでの印象は、汗、汗、汗。激しい動きの連続で、2人の纏った明るい緑色のシルクのブラウスが汗に濡れ、ぴったりと黒い地肌にくっついていた。丈短めのマンボズボンで踏む高速ステップ、振りまくるヒップ…。獰猛なブラスセクションの金管音のなかで、黒人男性のセクシーさとはこういうものか、とガキながら感じ入った。最前列に福田一郎や湯川れい子ら評論家連が陣取っていた記憶もある。
 
 思えば自分が「サム&デイブ」の東京公演を見たころ、「ザ・スタイリスティックス」はすでにフィラデルフィアで活動していた。フィラデルフィアという土地柄について、「黒人人口が多い割にソウルミュージックは不毛」としている資料もあるが、いわゆるディスコミュージック最初の大ヒット、「ソウル・トレインのテーマ」はここで生まれた。曲の原題は、その名もTSOP (The Sound of Philadelphia)。どうしてどうして、不毛の地とはとても思えない。

「ひょうたん島」と革命歌

Posted by Ikkey52 on 19.2013 音楽   0 comments   0 trackback
 時代の先端をいっている動画系SNSのひとつyoutubeには、いまどきの日常生活ではとんと耳にしなくなった前時代的な革命歌や労働歌の類いもたくさんアップされている。中でも、「インターナショナル」の再生数の多さはちょっと別格で、かつて大ヒットした懐メロ並みの人気を誇る。「~立て 飢えたる者よ 今ぞ日は近し~」の歌詞で始まる、いわゆる、あの「インター」である。

 詞が、権力との闘いを強烈に鼓舞する生々しさを持つのに対して、メロディーには、勇ましさよりもある種の荘厳さ、重厚さを感じる。実際、ソ連の旧国歌だが、「世界で最も広く歌われた国歌」といわれるほど、様々な言語で歌い継がれてきた。社会主義国の男声合唱団では十八番の一曲だが、味わいはそれぞれ違う。もともと歌詞はパリコミューンの年につくられ、その後曲が付いたというが、いずれにしてもフランスがこの歌の故郷だ。

 日本では佐々木孝丸と佐野碩が訳詞にあたり、広く歌われるようになった。ともにプロレタリア演劇人なのが面白い。佐野はソ連で、のちに粛清されるメイエルホリドに弟子入りし、国外追放になったあと、トロツキーの逃亡先だったメキシコに渡り、演劇活動に打ち込んだ。佐々木は戦後、映画、テレビにひっぱりだこの悪役として名を馳せ、特に非情な大資本家や老獪な保守政治家がよく似合ったが、「インター」の原訳詞者、巧みなエスペラント語の使い手、という素顔をそれに重ね合せるのは、かなり難しい。メロディーはAメジャーやB♭メジャーの調性で伝わっている。

 Youtubeから漏れている著名な革命歌に「第七旅団の歌」がある。革命歌の歌詞は一般的に勇猛一色になりがちだが、「第七旅団の歌」には、「~オイラの生まれはここではないが オイラの胸はここに高鳴る~」、「~容赦なく また常に容赦求めず~」、「~妻と老(おい)とを家に残して~」、「~オイラの数は少ないけれど~」など、独特な哀感が滲んでいる。それはこの歌がスペイン市民戦争で歌われたものだからで、マイナーのBメロからメジャーに変わる「~第七旅団のゆくところ ファシストは滅ぶ」という有名なサビが動かぬ証拠だ、と信じていた。ところが、バルタン星人氏のブログ、その名も‐「第七旅団の歌」考‐によると、この歌は、ソ連の劇作家コンスタンチン・シーモノフが書き上げた『プラーグの栗並木の下で』という舞台を、早稲田の学生劇団「自由舞台」が1952年に上演するにあたって、挿入歌として作ったもので、作曲は宇野誠一郎。物語の背景はドイツ占領下のプラハ解放闘争であって、スペイン戦争ではない。「歌詞に関しては、シーモノフ作詞、土方敬太・村山知義共訳、宇野誠一郎補作とするのが適当かもしれない」。
(http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/1192.html)
 
 
 当時、「自由舞台」で音楽を担当した早稲田仏文2年の宇野は、のちに「ひょっこりひょうたん島」はじめ一連の井上ひさし作品や、TVアニメ「ムーミン」のテーマを手掛けたことで知られる。「自由舞台」出身のベテラン俳優、加藤剛は、「第七旅団の歌」について「長い間、自由舞台の団歌と共に愛唱されていた」と証言する。多くの人の心を捉えた名曲ったからだろう。プロの録音がネット上で気軽に聴けないのは何とも残念でならない。

ジャズは辺境から変わる…老批評家、相倉久人の長い旅

Posted by Ikkey52 on 14.2013 音楽   0 comments   0 trackback
 最近、けっこうな頻度でお世話になる集英社新書の一冊に「相倉久人」という懐かしい著者名を見つけて『至高の日本ジャズ全史』を手にした。戦後日本のジャズシーンで独特の立ち位置を占めた先鋭的批評家だ。終戦直前の陸軍幼年学校に通った体験を持つ1931年生まれの82歳だが、文章は相変わらず若い。かつて売った喧嘩、売られた喧嘩の話が多少多いのが玉に疵だが、「楽器を持たないジャズマン」と呼ぶにふさわしい相倉のプレイヤー感覚は、傍観者としての批評を断乎拒否することで成り立っており、評論家という厄介な荷物を背負い込んだ人間の生き方として、それがなんとも潔い。

 一読してわかるのは、相倉はプレイヤーたちをイノベーターかどうかでまず篩(ふるい)にかけていることだ。山下洋輔を一貫して買い支えてきたのもそうだし、アメリカ帰りの渡辺貞夫がボサノバへ、あるいはエレクトロニックなサウンドへと越境するのも好意的に見ていた。さらにさかのぼって、1955年に国鉄目黒駅構内で飛び込み自殺するビーバップ系のピアニスト、守安祥太郎を「天才」と表現するのもそのためだ。守安の自死に衝撃を受けた秋吉敏子は、寄る辺を失って渡米していった。ちなみに、ニューポート・ジャス・フェスティバルに日本人として初出演した秋吉に対して相倉は否定的で、「東洋人・女性・着物姿・ジャズの組み合わせからくる、あの国の興味がそうさせたのであって、日本のジャズが成功した例ではない」と突き放している。

 相倉久人の名を知らされたのは、平岡正明の文章が最初だった気がする。好きな人間は最大限持ち上げるのが平岡流だが、相倉へのリスペクトは並ではなかった。では相倉はいまどう感じているのか。最終章の菊地成孔との対談では、「50年代60年代のジャズには、学生運動がやろうとしている革命思想と共通した構造があると言いたかった。ただし、あっち〈平岡〉は政治的精神構造をしてるでしょ。こっちは幻想世界の話なんだから、それを勘違いしてはいけないんだけど、結局一緒くたにされちゃった。60年代終わりころには、それでずいぶんヒドイ目にあったんです」と迷惑気だ。たしかに平岡に祭り上げられ、敵を多く作ったことは、相倉に世間を歩きづらくさせたろうが、悔やみ事はそれ以上述べていない。

 天才ドラマー富樫雅彦が下半身不随になった原因を調べようとネットをあたると、たいてい「1969年の不慮の事故」にされているが、相倉は「1970年の事件」と書く。富樫の浮気が原因の刃傷沙汰で、背後から奥さんにナイフで刺され脊椎を損傷したのだ。ただし、相倉はあからさまには表現せず、「横でかいがいしく看病する奥方の顔をおそるおそる覗き見ながら、寝返りひとつ打てない富樫を無念の思いで見舞った」と遠回しに記す。

 自分のジャズ論を探して彷徨した老批評家は、内田樹の『日本辺境論』に希望を見出す。あらゆる文化はその辺境から変化する、と。〈伝統からのお墨付き=名詞としてのジャズ〉をいつまでたっても有難がる空気に辟易して、相倉は1970年以降、ジャズの小世界から飛び出した。そして、映画へ、ロックへ、歌謡曲へとアナーキーにウイングを伸ばし、桑田佳祐や爆風スランプの生みの親にもなってきた。「流れる水のように、自分でも自分が何者だかわからない」のは、変革者にとって必須の資質なのかもしれない。

リオ生まれの粋…ボサノヴァの響き方

Posted by Ikkey52 on 17.2012 音楽   0 comments   0 trackback
 プロレスラーのアニマル浜口が、娘の京子のロンドン五輪敗退を慰めるのに、例の調子で「リーオ、リーオ、リーオ」と怒鳴っていた。次期オリンピックは南米大陸初の開催、ブラジルはリオデジャネイロだ。いまから楽しいサンバのリズムが聞こえる。
 サンバやボサノヴァに、なぜか心を惹かれる。これはどうしようもない。中学生の時分、セルジオ・メンディスとブラジル‘66の音楽にノックダウンされた。アストラット・ジルベルトのハスキーヴォイスに大人の女の色気を感じた。ただし、当時の音楽区分けでいけば、メキシコ音楽も、インディオのフォルクローレも、「ラテン」という分類に入っていた。おおざっぱなものだった。
 声を張り上げずに歌うボサノヴァの不思議な唱法は、どうして出来上がったのか、諸説あるようだが、リオの中産階級の子弟らがコンドミニアムの一室をサロン化して音楽をやっているなかで、隣室に響かないように小声で歌ったのが始まりらしい。多くの民族音楽が、喜び、楽しみ、怒り、悲しみなど、ストレートな人間感情から出ているのとはちょっと色合いが違う。歌詞として少しばかり単細胞な、だから歌いあげるなどということはなく、ささやきに似たレベルで歌うのがお約束の気だるいサウンドに、どうしてこれほど心が震えるのか。ジャズっぽい和声と独特な律動(リズム)で味付られた、音楽的にはかなり高カロリーな美食に違いない。
 ナラ・レオン、カルロス・リラらとともにボサノヴァ黎明期からの大看板の1人に数えられるロベルト・メネスカルがこの夏、75歳で日本ツアーのステージに立った。この人のジャズ・フィーリングに満ちた小粋なギターフレーズは、もう枯山水の域。ベテラン女性歌手ワンダ・サーとのデュエットは何度聞いても飽きない。その名も「リオ」という名曲はメネスカルの作品だ。
 商業音楽の指標がレコードになって、世界で一番売れた音楽はビートルズ・ナンバーだが、二番目の売れ筋は、ボサノバの父、アントニオ・カルロス・ジョビンのナンバーなのだそうだ。1994年にニューヨークの病院でジョビンが死ぬと、彼の祖国ブラジルでは、リオ生まれの偉大な音楽家の死を悼んで国民に3日間の服喪を求める大統領令が出された。のちにはリオのガレオン空港が、「アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港」に改名された。世界中の様々なステージで演奏家、歌手がジョビンの曲を夜ごとカバーしているが、地球の裏側の大国で、彼の存在がどんなに大きかったか、私たち日本人にはちょっと想像もつかない。
 ジョビンの手になる名曲は数多いが、youtubeで見られるものでは、1986年モントルージャズフェステイバルでのVocê e eu(邦題:あなたと私)と Chega de Saudade(邦題:想いあふれて)が絶品と思う。ハーモニー至上主義者は時としてユニゾンを軽く見ることがあるが、このジョビン・バンドのステージでは、5人で担当する女声バックコーラスのユニゾンが堪らなく魅力的だ。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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