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どこまでも「恵泉女学園」的な…日本ノンフィクションの「通史」

Posted by Ikkey52 on 14.2017 ジャーナリズム   0 comments   0 trackback
 こともあろうに日本のノンフィクションの通史を語ろうなどと、よくもまあ武田徹という人は野心的テーマを引き受けたものだ。しかも新書版だ。とことん深く論じる紙数はない。したがって、概観にととまり、駆け足に終わるのはやむを得ないにしても、その分、ずっとアカデミズムの世界(恵泉女学園大・メディア論)に身を置いてきた著者自身の体臭が、過剰に醸されてしまったように思える。

 論述の通底音を成すのは、やはり大宅壮一の仕事と発言だ。ルポルタージュ文学か、文学的ルポルタージュかの分水嶺を考えさせながら、林芙美子と石川達三の従軍記を比較し、戦後サークル誌運動や生活綴り方運動を横目に見て、梶山季之、草柳大蔵というトップ屋二大巨頭の台頭に至る。その上で、戦後出版界の金字塔でもある筑摩の『世界ノンフィクション全集』の採録傾向から、当時の編集者らがノンフィクションをどう捉えていたのか探ろうとし、一方では、新しいノンフィクションの担い手として登場したテレビ・ドキュメンタリーの諸挑戦まで視野に入れる。実に欲張りな通史といっていい。

 田中康夫のベストセラー小説『なんとなく、クリスタル』にも一定の紙幅を割き、小説に脚注として挿入されたバブル期を象徴する442個の商品ブランド名、店名などは、仮構された物語の中身とは別に、「東京の都市空間が崩壊し、単なる記号の集積と化し」ている現実を示した、との武田の指摘は鋭い。

 同じく携帯電話の普及とともに登場するケータイ小説も、稚拙な表現や文体とは別に、頻繁に描写されるケータイ操作の選択や判断のシーンに注目すれば、小説自体ある種の「操作ログ」の集積とみることができる。それはケータイ時代の現実であり、その限りにおいてケータイ小説もジャーナリズム機能を果たしているといえる。フィクションの領域にここまで目配りしてノンフィクションを論じる武田の丁寧さは大いに買える。

 一方、武田は「アカデミック・ジャーナリズム」なる概念を持ち込み、書き手として、宮台真司、佐藤俊樹、古市憲寿らの学者の名をあげる。そのうち、佐藤は『不平等社会日本』のなかで、「一般マスメディア・ジャーナリストには望みようもない強力な調査力と分析力を駆使して」、この国で嚆矢となる格差社会論を著した、とする。要は、社会学系のアカデミックな統計を使えたから、という趣旨らしいが、それなら一般マスメディア・ジャーナリストも利用する手はいくらでもあり、あえて区別する意味が分からない。

 沢木耕太郎にはそれなりのエネルギーを費やしているが、本田靖春や魚住昭のような企業ジャーナリスト出身者の仕事は顧みられないし、スポーツ系の山際淳司、芸能系の竹中労、取材チームで仕事をする立花隆や佐野眞一、猪瀬直樹にもほぼ光は当たっていない。のみならず澤地久枝、鎌田慧、関川夏央の名も見えない。アカデミック・ジャーナリズムというならば、当然取り上げられてしかるべき有馬哲夫の仕事も無視されている。

 調べてみると、著者の武田には、シカゴ大学を中心にしたアカデミック・ジャーナリズムなるものの勃興を、あくまで学者として研究した論文もある。本作はどうやら、そこでの考察を大幅に使いまわしたものとみて良さそうだ。 
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マスメディアと長時間労働規制…杓子定規の受け入れに潜む罠

Posted by Ikkey52 on 12.2017 ジャーナリズム   0 comments   0 trackback
 外食産業などの長時間労働問題がテレビや新聞を賑わすたびに、なんともいえない居心地に悪さを覚えてきた。およそ速報性を求められるマスメディアの表現は、内容の硬い柔らかいに拘わらず、そこで働く人たちの恒常的な長時間労働に支えられてきたことを、身をもって知っているからだ。ろくに休日さえとれない劣悪な職場環境を舞台裏に抱えながら、どのツラ下げて偉そうに、他社、他業種の長時間労働を叩けるのか、という思いがいまも自分には強い。 

 一昨年暮れに自殺した電通の女性新人社員の事件が、昨年秋に労災と認定された。電通本社には、厚労省の通称「カトク」と呼ばれる過重労働撲滅特別対策班が強制捜査に入り、トップが引責辞任する事態に発展した。業界内には、この女性社員の自殺を巡って、世上伝えられているものとは別の引き金があったのではないか、との見方が依然くすぶっているが、ここでは措く。鬼十則の社訓が示すとおり、電通という会社には、古くから「がむしゃら」な働き方を称揚する風土があったのは事実だからだ。

 この四半世紀に表沙汰になった電通社員の過労死は3件目だが、闇に葬られた過労死もどれだけあったか。昨年暮れには、市民団体が選ぶ「ブラック企業大賞2016」に電通が決まり、晒し者にされた。恥ずかしい話だが、日本では電通の実態に触れること自体、一種のマスコミタブーになっていた。その気にさえなれば、自社に不利益な報道を力づくで捻り潰すこともできる強面企業が、長時間労働是正を巡る一罰百戒の対象として、スケープゴートに供されようとはだれが予想したろう。厚労省の本気度がうかがい知れる。

 電通本社の摘発という落雷を、かつてない深刻さで受け止めたマスメディア各社は、いま一斉に長時間労働解消に奔走し始めた。特にテレビ局内部の締め付けは極端だという。しかし、そこには考えなければならない問題がいくつも横たわる。例えば報道機能は、市民の知る権利に奉仕するものだ。報道部門に夜討ち朝駆け禁止令が出た社もあると聞くが、それで報道機関の使命が従来と変わらず全うできるのか。市民の付託に応えるに足る権力監視ができるのか。

 そもそも取材というのは、膨大な無駄打ちの積み重ねだ。効率的取材を考えない取材者はいないが、効率だけを優先すると取材は勢い粗くなるものだ。緻密な取材は、どうしても一定の時間を費やすことで担保される。ドキュメンタリーの現場など無駄の山で、大の大人がチームを組んで、日がな一日取材対象に張り付いても、1秒のOKカットさえ得られない場合が珍しくない。今後のドキュメンタリー制作は鬼っ子扱いされなねない。

 テレビニュースは、自ら企画し、放送日を決めて、それに間に合うように取材するものと、突発事態を待ち構えて、追いかけるものとがある。後者の場合、待機部隊を厚くすることは不経済だから最小限しかいない。そのマンパワーで間に合わなければ、非番のスタッフを呼び出すことになるが、呼び出しは原則として代休付与とセット。躊躇する心理がニュースデスクに働かないとはいえない。その結果、人手不足による不完全な取材を見せられて、知る権利を十全に行使できなくなるのは視聴者(市民)の側だ。

 長時間労働の是正それ自体は正論だ。しかし、労働法制上の規制を杓子定規にマスメディアにまで適用するのは、かなり危ないことだ。もともとマスコミ嫌いといわれる安倍総理が働き方改革に強い姿勢を見せているのは、まさかマスコミ苛めの搦め手か、と勘繰りたくもなる。ともあれ、マスメディアの側に相当の腹の括り方が求められる時代であることは確かだ。

ル・カレの孫娘が綴る独自の世界…『蛇の書』

Posted by Ikkey52 on 06.2017 文芸批評   0 comments   0 trackback
 古書と錬金術を下地とする知的ミステリの現代劇だが、率直にいって歯ごたえがありすぎた。それにしても日本版翻訳者、宇佐川晶子の苦労はいかばかりだったか。手元の辞典とネットですぐ答えが見つかるようなバックグラウンドではない。脱稿するまで血のにじむような苦行の日々だったろう。

 アナ・ヴェルコは27歳の古書研究者。彼女のことをルネサンス的教養人だと褒める同僚がいるが、衝動的で軽はずみな女とけなす批判者もいる。どちらも当たっている。ロンドンにある謎めいた金満の古書探索組織から魅力的なオファーを受けたアナは、ブックハンターとしてスペインのマヨルカ島に乗り込む。あれこれ調べるうち、自分が追い求めている中世の書簡と、10年前、つまり2003年にバロセロナで起きた不可解な女性連続殺人事件との不気味なつながりを発見する。

 それだけではない。19世紀のバロセロナで瓜二つの猟奇的事件が起きていたことも分かる。歴史の闇に消えた書簡の行方を知るには、現代の事件を解明することが近道と考えたアナは、バロセロナに腰を落ち着けて2003年事件の関係者をしらみつぶしに当たろうと決めた。2003年の事件当時、警察の捜査の中心にいた元刑事ファブレガードは、死体発見前に必ず犯人から犯行予告の手紙を送り付けられていた男で、仕事を離れたいまも事件解決の執念は全く衰えていない。アナからの接触を受けて、協力を惜しまない。

 一連の2003年事件の最後の犠牲者はバロセロナでは知らない者はいない天才女優ナタリア・エルナンデスだった。彼女の短い人生、不幸な生い立ち、美貌ゆえに彼女を放っておかなかった癖のある男たちのなかに、事件解明のカギはあると確信したアナは、中世の錬金術だの女預言者だのの話を、心の底では小馬鹿にしているリアリストの元刑事とは距離を置いて、自分の足で真相に迫ろうとするが、いつも何者かの視線を感じる…。

 スペイン第二の都市バロセロナは、スペイン戦争で独裁者フランコから土地の言葉カタロニア語を奪われた反骨の土地柄で、独立精神が横溢し、敗北したスペイン人民戦線の主要イデオロギーだった伝統的なアナキズムも死に絶えてはいない。ドイツ赤軍‐いわゆるバーター・マインホフ系グループのテロの記憶も残っている。中世、近代、現代のきな臭さが、ニンニクとオリーブオイルと黒ソーセージの郷土料理の香りや、粗削りなスペイン・ワインのアロマと複雑に交じり合う。

 情景描写の細かさ、街角の料理屋で供される食事のリアリティ、一人称で語られる若い女アナならではの肉体感覚…。魅惑の観光都市バロセロナを舞台にした知的ミステリの小品としてまとめても十分通用する中身だが、作者であるジェシカ・コーンウェルは、中世異端信仰や錬金術に関する蘊蓄に、それが例え自家薬籠中の物であっても、なぜここまで大きなボリュームを割り振ったのだろう。それでも、『ガーディアン』や『タイムズ』の批評子たちがこぞって本作を激賞しているというのだから、こちらの小説読解力の限界をあらためて痛感すべきか。ジェシカの実の祖父はあのスパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレ。血は争えないだろうと期待したのだが、孫娘には自分の世界があるようだ。

青春小説に蘇る新聞人の気概…『北海タイムス物語』

Posted by Ikkey52 on 03.2017 ジャーナリズム   0 comments   0 trackback
 終身雇用が日本の企業社会の美徳のひとつとされていた時代も、中途入社やキャリア採用はあるにはあったが、あまり一般的ではなかった。新聞業界は例外で、地方の小さな新聞社での働きを買われて、より大きな新聞社に移籍して行くケースがいくらでもあった。例えば、大物政治家が次々と未公開株で甘い汁を吸い、大スキャンダルになったリクルート事件は朝日新聞のスクープだが、北海タイムスからの移籍組が取材の中心にいたことは業界で有名な逸話だ。

 平成10年に自己破産した北海タイムスは、日本の3大ブロック紙のひとつとされる北海道新聞(道新)に対抗した第二県紙だった。昭和30年代半ばに朝毎読など東京紙が相次いで北海道進出を果たしてからは、消耗戦で疲弊し、累積債務を増やしていった。経費切り詰めが常態化し、給与水準も昭和50年代にはすでに無残な線まで後退していたが、社員らは名門新聞社のプライドを一層高く掲げることで経営危機に耐えようとした。『北海タイムス物語』を書いた増田俊也は、大学中退後の2年間、実際に同社に在籍した体験を、劇画の原作を思わせるユーモラスで熱い青春小説に紡ぎなおした。

 司法試験をあきらめ記者志望に転じた東京の大学生、野々村巡洋は、20を超す全国の新聞社を受験して、北海タイムスのみに合格した。北海タイムスへの就職は大手紙再挑戦のための助走のつもり。長居は無用と割り切っている。短期間であっても社会部記者としてばりばり経験を積もうと決め込んでいたが、配属先は予想もしなかった整理部。見出しをつけ、フォントを決め、紙面をレイアウトする内勤で、会社から一歩も出られない。

 おまけに、ろくに企業研究もしていないので、給与の安さ、労働時間の長さを初めて知り愕然とする。しかも整理部は徒弟制度で、ついた師匠はミスター・タイムスの異名をとる寡黙な仕事師。腰かけ気分をたちまち見破られ、まともに口もきいてもらえない。挙句に、せっかく東京から遊びに来てくれた恋人、日菜子とは、出迎え先の新千歳空港でささいなことから喧嘩別れする始末。

 仕事もプライベートも全くうまくいかない中で、意に染まない新聞社対抗朝野球やケチな飲み会などに強引に連れまわされる。学生時代の貯金も底をつき、サラ金にも手を出した。社会部記者に配属された同期男女は溌剌として見え、何人かは瞬く間に同業他社から引き抜きの声がかかったと聞かされ、居ても立っても居られない…。

 自分が知る当時のタイムス記者の気質は真面目そのもの。夜討ち朝駆けにも手を抜かず、皆腕が立つので、警察など取材先から一目置かれていた。バブル以来の売り手市場といわれる今の就職戦線だが、少子高齢化の傾向に変化はない。新聞社の門を叩く若者のなかには、銀行やメーカーを併願する者が珍しくないという。先行きの不安から、よりよいサラリー、よりよい雇用条件が、職種選択より優先なのだろう。『北海タイムス物語』のなかにたくさん登場する「新聞人でいられるなら、どんな貧乏にも耐えてやる」といった気概の持ち主が、すでに絶滅危惧種になのはわかっている。わかっているのに、読みながら何度か不覚にも涙腺が緩んだ。いい読書になった。

持論に溺れた東芝の落とし穴

Posted by Ikkey52 on 27.2017 原発   0 comments   0 trackback
 日本を代表する大メーカー東芝が巨大損失を抱えて、生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨っている。その原因となったのは、買収した米原発子会社ウエスチングハウス(WH社)が抱え込んだ負債だ。ではなぜ、WH社が大きな負債を抱えるに至ったのか、明確な情報になかなか出会えなかった。月刊誌グリーンパワー5月号のコラム「環境ウォッチ」が、そのからくりをわかりやすく解説しているので紹介したい。

 アメリカでは1979年のスリーマイル島原発事故が負の教訓となって、長く原発の新規発注が途絶えていた。しかし2005年、エネルギー自給率の向上を目指すブッシュ政権が新しいエネルギー政策法を制定したことで、状況は一変する。新規原発は、建設後の最初の600万キロワット分(原発約6基に相当)の発電量について、1キロワット毎時当たり、1.8セントの税控除を8年間に渡って受けられることになった。

 「アメリカで原発建設需要が弾ける!!」。東芝は色めきだった。もともと自社は沸騰水型炉に強い。一方、WH社は加圧水型炉に強みがあった。WH社を取り込むことができれば、「世界規模で原発建設市場を席捲するのも夢ではない」。東芝は、アメリカにエネルギー政策法ができた翌年、約6000億円という巨費を投じてWH社を買収した。同時期、三菱重工もWH社買収に乗り出していたが、東芝の提示額は三菱の実に倍だったという。こうして東芝傘下に入ったWH社は2008年、アメリカで4基もの原発建設を受注した。

 ところが好事魔多し。受注後まもなく、リーマン・ショックが世界経済を揺るがした。その後も、日本のフクイチ事故(11年)、アメリカのシェール・ガス革命と、4基の新設にとって大逆風が吹き続けた。しかも工事は遅れた。1.8セントの税優遇を得るには、2020年の運転開始というタイムリミットを守ることが条件になる。もし、税優遇がなくなれば、1基あたり確実に見込める1000億円以上の恩恵が泡と消える。

 東芝にとって想定外の不運は確かにあった。とはいえ、東芝の真の過ちは、原子力発電というものの世界的将来性を読み違えたことではなかったか。特にフクイチ事故以降、原発の安全対策費は建設コストを激しく押し上げた。原発大国フランスでさえ、2012年の運転開始を見込んだフラマンビル原発3号機が、建設費高騰のため、いまだに完成を見ていない。フランスのアレバ社と組んでフィンランドの原発建設を手掛けていたドイツ・シーメンス社は、建設費が倍になって、完成の目途が立たないので、アレバ社との提携を解消し、原発建設ビジネスそのものから撤退した。日本の原発輸出を受け入れたかに見えたベトナムも、あっさり建設計画を撤回している。

 EU諸国の大勢は、様々なエネルギー源を相対化し、競争させて発電コストを抑える方向に踏み出している。民主主義国のなかで日本のように強力な原発依存策を維持している国はむしろ例外だ。あらためて指摘するまでもないが、発電コストを比べれば、廃炉や廃棄物処理費用まで含めた原子力発電は、他のエネルギー源利用の発電に全く太刀打ちできないし、そもそもエネルギーとしてクリーンでもない。
 持論に溺れる人間は誰しも、あっけなく墓穴を掘るものだ。秀でた人材が蝟集する不沈艦のような大企業といえども、足元の砂の小さな崩れに気づく感性を欠けば、「持論に溺れる」という死角にやすやすと入ることになる。
  

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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