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国際陰謀小説の巨匠フォーサイスのツキまくり人生…『アウトサイダー』

Posted by Ikkey52 on 11.2019 書評・アジア情勢   0 comments   0 trackback
 国際謀略小説の巨匠でありながら、来歴がいまひとつわかりにくかったフォーサイスの伝記が出版されたので飛びついた。題して『アウトサイダー~陰謀の中の人生』というのだが、サブタイトルは良いにしても、果たしてこの成功者はアウトサイダーなのか。訳にあたった黒原敏行が指摘するように、むしろインサイダーと呼んだほうがふさわしい、そんな気が読後もしている。

 この伝記に出会うまで疑問だったのは、大学教育を受けた気配がないのに、なぜロイターやBBCといった名の知れたマスメディアに採用されたのか。しかも若く社歴が浅いにもかかわらず、希望者が行列する海外特派員にどうして抜擢されたのか、ということだった。

 結論を急げば、前者については、中流階級の出でありながら、支配階層の子弟が多いパブリック・スクール(ご存知の通り、英国では公立ではなく私立学校を指す)に学び、名門とされるオックスフォードやケンブリッジの大学進学資格をわずか15才で取得したが、既定ルートに乗るのを潔しとせず、小さなころの夢を叶えるため空軍を志し、19才でジェット機パイロットの資格を得、二等兵から一気に士官に昇任するという、かなり変わった経歴が、一般大卒者と伍して行くのに少しも不利ではなかったこと。
後者については、親の勧めもあり少年時代に経験したドイツ、フランスでのホームステイ体験が両国の言葉を身につけさせ、空軍時代の少し荒っぽい冒険海外旅行が危険といわれる地域に飛び込む度胸をつけさせたことだ。

 それにしても海外特派員の出発点が、ド・ゴール時代の物騒なパリであり、そのあとが鉄のカーテンの向こうにあったロイター通信社東ベルリン支局の一人勤務だったのは、のちにスパイ小説家となる者にとって、どれほどの僥倖だったか。特に東独体験だ。なにしろ、ル・カレの名作『寒い国から帰ってきたスパイ』の舞台としてあまりに名高い東西ベルリン間の検問所「チェックポイント・チャーリー」を日常的に行き来するのだから。

 ロイターから転じたBBCへの反発が強いのは、ビアフラ内戦に特派された際、自分の発したレポートが無視され、調べてみると、BBC本社はイギリス政府方針に逆らえないことが判ったからだ。フォーサイス青年は職を辞してフリーランスの記者となり、あらためてビアフラに入り直す。「ジャーナリストの使命はエスタブリッシュメント(権威や権力)に釈明させること」という彼の説明はシンプルで分かりやすい。ちなみに記憶の片隅にとどまっていたビアフラ内戦の構造が、今更ではあるが理解できた。

 海外特派員になるより、世界的ベストセラー作家になるほうがはるかに難しいのは、誰しも判るが、ここでもフォーサイスは強運を引き込む。尾羽打ち枯らした状態で書き上げた『ジャッカルの日』の梗概を、パーティで一度遭ったきりの著名出版社幹部に強引に読ませる。その幹部氏が面白がり、それだけでなく別に二作分のアイディアはあるか、と問われ、わずかな日数で構想をまとめた。それが『オデッサ・ファイル』であり、『戦争の犬たち』だったというから、フォーサイスという人はどこまでツキに恵まれていたのだろう。
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堂々たる農本主義思想家がいまだにテロに紐づけられる不幸…保坂正康『五・一五事件』

Posted by Ikkey52 on 29.2019 現代史   0 comments   0 trackback
 ずいぶん前の話になるが、茨城県出身の知人が滋賀の彦根に転勤した。着任挨拶に出向いた先々で、問われるまま水戸の生まれだと自己紹介すると、一瞬だが怪訝な顔をされる。それは、幕末の「桜田門外の変」に起因するわだかまりだったという。いうまでもないが、暗殺されたのは近江彦根藩主から幕府大老となった井伊直弼、襲ったのは水戸脱藩浪士だ。

 日本の近代史では、水戸人の革命性や過激さが時として恐ろしい勢いで突出することがある。上記の「桜田門外の変」がいい例だ。では、農本主義思想家で実際に篤農家でもあったひとりの水戸人、橘孝三郎と五・一五事件の関りも、その文脈で捉えればいいのか。

 学生時代、日本の農本主義とは何か知りたくて、権藤成卿や橘孝三郎の著作に挑戦したが、よく判らないままに終わった。保坂正康の『五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』で初めて、橘の人となりと思想、その遠景として見える権藤の立ち位置が、おそらくは輪郭程度だろうけれども、判った気になれた。

 特に橘の思想は、洋の東西、政治的立場の左右を問わない幅広い学識に裏付けられていた。将来のエリートを約束された一高生時代には、彼らの読書の通過儀礼であったデカルト、カントに親しみ、ヘーゲル、ショーペンハウエルへと分け入った。なにしろ、体調がおかしくなるほどの猛勉強だ。ベルグソン、マルクス、クロポトキン、北一輝と読み、結局トルストイの人生と、ミレーの農夫の絵に打ちのめされる形で学校を中退する。比較的裕福な商家に生まれたが、農家としてやっていこうと決めた。

 苦労の末、兄弟で作ったコミューン型の農園の経営を軌道に乗せた。若い農民を啓発する愛郷塾を主宰し、県や国にも一目置かせるまでになったが、その知名度と影響力があだとなり、一部海軍将校らが犬養首相らを殺害した五・一五事件の首謀者とされた。なにしろ損得というものを考えず、人を色眼鏡で見ないから誰とでも会う。交友範囲に一人一殺の井上日召や、反乱計画の中心を担った古賀清志海軍中尉らがいた。橘は弁明らしい弁明を拒否して無期懲役の刑に服したが、のちに恩赦となった。戦後は愛郷塾の旗を再び掲げ、思索に徹する生活を送った。民族運動家や農本主義を志す人々がひっきりなしに孝三郎詣でを続けた。

 著者の保坂は、当時水戸に住んでいた晩年の橘のもとに月1-2回のペースで1年余通い詰めて、この労作を書き上げている。「私は橘氏の人間的な魅力に会うたびに魅かれた。私は氏から個人教授を受けているようでもあった」。まさしく実感だろう。

 ただ、保坂は、橘の人間性への礼賛と、五・一五事件への関与は別だとして、しきりに昭和ファシズムの誕生と橘の思想の深い関係性に話を持っていこうとしているように見える。
ときには「君の質問内容はあまりに戦後民主主義に毒されている」と橘は顔をしかめ、それでも質問には答えてくれたという。「戦後民主主義」に大いに懐疑的な自分は、また保坂の悪い癖が出たな、と感じた。

過剰な自意識と上昇志向の果てで…『麻原彰晃の誕生』

Posted by Ikkey52 on 27.2019 事件   0 comments   0 trackback
 麻原彰晃以下13人のオウム真理教徒の死刑執行から1年が経つ。二度に渡る大量処刑はショッキングだったし、法務省当局は、平成の世で起きた大事件の結末を、平成のうちに着けてしまおうとしたのでは、などと憶測を呼んだ。麻原が、一連のおぞましい犯行の動機について、何も語らずに死刑台に登ったことから、「事件の解明は何ら為されていない」と訳知り顔で語る識者も相次いだ。

 高山文彦は自著の『麻原彰晃の誕生』を、「やがて盲目となる運命を背負ってこの世に生まれた赤ん坊が、どのようにして人類史上まれに見る狂気の教団をつくりあげたかをたどる伝記」と規定する。つまり、「そうなってしまうまで」の事柄に徹底的にこだわった。

 市井の人々が凶悪事件に抱く興味は、詰まるところ加害者への興味であり、ジャーナリストはその興味に応えようとしてきた。しかし昨今は、被害者周りの情報を水で薄めて記事の行数やニュースの尺を稼ぐお手軽な報道が多い。それを、個人情報の過剰な保護のせいにするのは易しいが、取材者の力量不足もあるのではないか。高山の取材は、日本社会がいまに比べれば取材という行為にずっとおおらかだった1990年代から始まってはいるが、麻原こと松本智津夫が生を受けた熊本県八代郡金剛村の通称杉山新地の成り立ちを、江戸時代まで遡って調べるなど、実に克明で調査の労を惜しんでいない。

 盲学校小学部では児童会長選挙の数か月前から級友らに菓子をばらまくという買収工作に出たが落選し、「自分には人望がない」と教師の前で泣いて驚かせている。中等部、高等部でも生徒会長選に出て落ちた。自らを客観視することなく、ただ並外れた自意識の強さの赴くままに、人の上に立とうと足掻く様を、学校仲間は冷ややかに見ていたわけだ。

 周囲に正当な評価を受けていない、という智津夫の的外れな苛立ちは、せめて腕力で上回りたい、と柔道への精進に結びつき、それが昇段となって実を結ぶまでは良かった。今度は高等部卒業後の進路選択として、当時の学力では到底合格ラインに届きそうもない難関大学の難関学部を受けると広く宣言し、教師や級友にまたもや超のつく変人ぶりを強く印象付けている。ラジオ講座を聞いた形跡はあるが、もちろん志は遂げられなかった。

 智津夫が怪しげな宗教家になって行くきっかけで大きかったのは、東京・世田谷に事務所兼住宅を構える西山祥雲との出会いではなかったか。西山は「西山経営育成ゼミナール」を開き、パチンコ店やスナック、レストランの経営者を育てる一方、自念信行会という宗教団体を主宰していた。すでに千葉県で指圧治療院を経営していた智津夫は、西山に教えを乞いたいが、経営育成ゼミナールの学費が惜しい。西山のプライベートな時間を狙って私的な訪問を繰り返した。政治家になりたいという智津夫のしつこさに根負けした西山は、「金がなくてもなれるのは、宗教家だけだよ。〈中略〉どうにもならない気の弱い人間ばっかりが宗教には集まってくるんだから、そいつらを魚釣りのように釣ればいいしゃないか」と漏らす。

 「彰晃」という名は、資産家であり宗教家であった西山祥雲が、姓名判断に詳しい人間に自分や弟子たちの名前の候補を十七、八考えてもらった際、使いきれないで余ったもののひとつだった。「今日、このときから『彰晃』と名乗らせていただきます」そう言って智津夫は西山邸を去って行った。

脱走米兵の足に使われたオホーツク諜報船

Posted by Ikkey52 on 25.2019 エスピオナージ・書評   0 comments   0 trackback
 「1945年9月に千島列島全域がソ連の占領下に入り、北海道、とくに根室地方の漁師たちは、その広大な漁場を失うことになった。その後もこの失われた漁場へ出漁して、ソ連の国境警備隊に拿捕される例が相次ぎ、こうした拿捕の危険なしに北方海域で自由に操業できないかと考える者の中から、レポ船が現れたとされる」。ウィキペディアは、「レポ船」について上記の通り解説する。

 レポ船の船主は、北方領土周辺のソ連主張領海に入り、ソ連国境警備隊と接触し、例えば自衛隊の配置や警察の人事、新聞情報程度の政治や経済の話を手土産にする。時にはテレビや洗濯機など電化製品を貢ぐ代わりに、宝の海である北方海域での漁に目をぶつってもらう。簡単にいえばスパイ船だが、日本の公安当局はソ連側との接触の現場を押さえることができず、したがって、摘発するすべがない。レポ船主を監視はするが、やることといえば、些細な情報を咥えさせる見返りに、ソ連側の動きを漏らしてもらうのが関の山だ。

 そんなレポ船がアメリカ軍の脱走兵を北欧の国に逃す足に使われた。もちろんソ連経由で…。ベトナム戦争最中の事実だ。泥沼のようなベトナムの戦場から、束の間の離脱を許され、休暇を過ごす兵士らで、当時の在日米軍基地は溢れていた。そうした兵士に向けて、厭戦気分を煽り、脱走をけしかけていたのが、ベトナム反戦を旗印とした組織、その名も「ベトナムに平和を!市民連合」、通称べ平連という無党派市民の緩やかな運動体だった。脱走米兵の出現は、アメリカのベトナム戦争への介入が当の米国民にさえ支持されていないことを宣伝する恰好の材料になる。過激な街頭闘争に明け暮れる新左翼各派とは一線を画し、既成の政党や思想集団、特定の労組をバックに持たないべ平連に、当時の世論は新しい市民運動の可能性を見出し、おおむね好意的だった。

 ところが、実は米兵をレポ船で逃すにあたって、べ平連は旧ソ連の諜報機関KGBと繋がっていた…。関根忠三の『ベトナム戦争脱走米兵亡命作戦』は、当時の関係者への粘り強いインタビューを通じて、「べ平連⁻総評⁻駐日ソ連大使館⁻KGB」という受け入れ先工作と、「べ平連⁻総評⁻旧北海道5区選出社会党代議士⁻支持者⁻レポ船主」という送り出し工作の両面を、余すところなく暴き出している。

 国会議員、外交官が関わる大亡命作戦でありながら、これに関わった日本人からひとりの逮捕者も出ていない。在日米兵は日本の出入国管理令の埒外の存在で、これに援助を与えたからといって、密出国を助けたことにはならないからだ。日米安保条約に反対するべ平連は、同条約に付随する地位協定のおかげで、摘発者を出さなかったといえる。

 関根は読売新聞北海道支社で記者生活に入った直後、脱走米兵亡命事件に遭遇、ライフワークとして全容の解明に取り組んできた。旧南ベトナム政府の副大統領グエン・カオ・キに単独インタビューするなど、取材は世界規模に及ぶ。事件記者として北海道警人脈に通じていたこと、実兄が北海道議会議員を長く務めた筋金入りの旧社会党員であったことも、このテーマを掘り下げるうえで強みになったはずだ。没後の出版だったことが惜しまれる。

核武装論者の反原発論

Posted by Ikkey52 on 28.2019 原発   0 comments   0 trackback
 政治思潮としての保守とリベラルの違いが、そのまま原発の賛否の違いに当てはまるとは思わない。例えば、保守派の論客と見られている国際政治学者の藤井厳喜は、強固な反原発論者だ。

 藤井の論拠を簡単にまとめよう(http://www.gemki-fujii.com/blog/2011/000724.html)。
 第一に、日本列島は地震列島であり、この様な地理的条件下にある国土に安全な原発を造る事は、原理的に不可能である。
 第二に、フクイチ事故で再確認されたように、日本のような島国で、原発や再処理施設が地震その他の原因によって大事故を起こした場合、国家の存続すら危うくする。
 第三に、原発は日本の電力の25%、第一次エネルギー全体の10数%を担っているに過ぎない。しかも危険を伴うものであるから、費用対効果の点から、賢明な選択とは言い難い。
 第四に、日本では、天然ウランがほぼ生産されないので、原発を推進してもエネルギー自立にならない。
 第五に、国内ではすでに30トン以上のプルトニウムが生産されている。これを、エネルギー自立の立場から、発電に使おうとする動きがあるが、原発より危険だ。プルトニウムの燃料が、ウランのそれよりも格段に制御しにくい事は実証済みである。
 第六に、国内には放射性廃棄物処分の適地がない。日本列島はかなり若い、火山活動やプレート移動や地殻変動の育成物なのであり、今後もこの列島上に放射性廃棄物の安定した長期保管場所は造れない。

 こうした至極まっとうな論拠を提示したうえで藤井は、「今、確実に言えるひとつの事は、前後の真のコストさえ無視すれば、電力会社にとっては原発が桁外れに儲かるビジネスだった、という事である」という。「前後の真のコスト」が、ウラン輸入と廃棄物処理に係る費用を指すのは言を俟たない。

 一方で藤井は、原発推進と憲法9条擁護が、真の国家独立とは相いれない同じ地平にあるとも喝破する。これには少し長い説明が必要だ。
 日本で原発が推進されているのは、米英仏露中の5大核兵器保有国が、核を永久に独占する目的で作った「核拡散防止体制」に隷属する、と誓っているからだ。日本は「絶対に核武装をしない」という前提条件を受け入れた上で、原子力発電を許されているのである。言いかえれば、日本の原発推進論者とは、本人が意識するか否かに関わらず、「日本は絶対に核武装しません。その代わりに原発を許して下さい」と嘆願している哀れな存在である。
 他方、憲法9条の本質は、自らの安全を自らの手で確保する事を諦め、自らの命運を他国の手に委ねる所にある。主体性の放棄である。原発推進派の拠って立つ所も、全くこれと軌を一にする。

 では日本の取るべき道はなにか。ここからが国際問題アナリストたる藤井の真骨頂だ。
 日本人はアメリカの核の傘に守られていると思いがちだ。確かに、北朝鮮のような第二撃能力がない国家に対しては、アメリカの核の傘は存在する可能性がある。しかし、アメリカとロシア、そしてアメリカと中国の間には、「相互確証破壊」(MAD)の関係が成立してしまっているので、ロシアと中国に対しては、アメリカの日本への核の傘は存在していない。

 藤井は力説する。原発推進とは即ち核武装放棄という事であり、国防政策に於いても、またそれと不可分のエネルギー政策においても、自国の命運を他国の手に委ねるという事に他ならない。 一体全体、この主張の何処に保守主義があるというのか、と。

 アメリカとの同盟関係がこれまでのように、これからも継続する保証がどこにあるのか。「永久に使わない核兵器」を持つことによって、核保有国が示す数々の理不尽に対抗でき、自国の平和と安全が守れるのであれば、技術はあるのだから、やればいい。30トン以上のプルトニウムはすでに自国資源化している。日本が核を持てば、百害あって一利なしだった迷惑施設の原子力発電所も、電力会社の不快な虚偽宣伝や大国への卑屈な隷属とともに、すべて消えてなくなる。これもまた、ひとつの考え方としてあるのだと思う。
  

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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