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実名で語ることの清々しさ… 『人之初 平岡正明自伝』

Posted by Ikkey52 on 06.2018 文芸批評   0 comments   0 trackback
 学生時代、別に希望したわけではないのに、偶然、平岡正明の講演を聞く機会を得た。ファンだったので興味津々で出向いたところ、檀上に上がったのは、角刈りで活舌と顔色が良い、ミテクレだけでいえば、左翼より右翼が似合う兄さんだった。
 平岡正明の著作との出会いは『姐さん待ち待ちルサンチマン』と題するパンフだったはずだが、漢字表記がこれで間違いないのか、いまとなっては自信がないし、死後三年経って出た『人之初(ひとのはじめ)平岡正明自伝』巻末の著作目録にも載っていない。そうだ、60年安保闘争を学生部隊の一員として戦った世代だから、謄写版(ガリ版)著作物の海を泳いできている。活版にならない著作物など星の数ほどあったはずだから、いちいち拾ってはいられないのだ、と遅まきながら気づく。ちなみに、ちゃんと本の装丁の著作を手にしたのは『韃靼人宣言』が最初だ。いや、『あらゆる犯罪は革命的である』だったっけ。 

 どっちにしろ、斬新な文体の虜になり、その熱がしばらく継続したが、やがて、テーマをとっかえひっかえするだけで、論旨は同工異曲であると気づき(息の長い、ほとんどのライターはそうなのだが)、そのうち、出る新刊を遠くから眺め、タイトル付けの才に感心するだけになっていた。

 この人の書くものは、ジャズでいうところのグルーブ感が命であって、公と私、原体験と追体験がないまぜに提出され、脈略がないのが、特徴といえば特徴だ。したがって、長いこと付き合ってくると、私的部分もかなりくっきりとわかってくる。しばらくその存在も忘れていた物故ライターに再び興味を掻き立てられたのは、『人之初』がライターの幼年期と学生時代、その直後を語っていると知ったからだ。自分のなかの〝平岡体験〟はすでに卒業証書をもらった気になっていたが、考えてみればそれには空隙、欠落があり、『人之初』はその空隙、欠落を埋めるのにお誂えだったのである。平岡が語るチャーリー・パーカーより、勝新太郎より、談志より、山口百恵より、自分は平岡自身に興味があったと、再確認したわけだ。

 『人之初』を入手しようとして、驚いたことがある。若い世代が「平岡正明論」を試みている。すごいチャレンジだと思う反面、未読で言うのも申し訳ないが、必ず失敗に終わる予感がする。〈トロツキズム+ネチャーエフ的アナーキズム〉の殻から、終生出られずに、最後は居直った平岡の政治スタンスの限界は易々と撃てるかもしれないが、晩年の毒気の抜け方を横浜・野毛あたりのタウン誌で知る身としては、そこまで追い詰める理由があるのかよ、とイチャモンのひとつもつけたくなるし、音楽論や大衆芸能論は極私的過ぎて撃ちようがないからだ。

 さて、『人之初』の中身だが、著者はもうこの世にいないとはいえ、これが全編、極私的回顧。「世紀も代わったし、まあいいじゃないか」と、過去のゴタゴタの解題に実名の嵐。昨今の個人情報管理過多社会では、いっそスッキリする。えっ、という著名文化人の若気の至りも満載だ。大学時代の語学の担任、故人となったサークルの伝説の先輩、いまでも年一回は盃を交わし合う同輩の名もある。下宿先まで同じ町だったとは何かの縁…。
 本の帯に「平岡本はまずコレから読め!」と版元の彩流社が多分に若い読者を意識したと思われる惹句を掲げるが、こんなもんから平岡研究に入っても本質は皆目分からないと思う。ちなみにこの版元、校閲の手抜きがかなりいどい。
「金儲けに慌てたな、やい、そうだろう」。なにかこっちまで平岡文体に取り込まれてしまった。

 ブント出身者は、新左翼本流意識がことのほか強い。平岡は西部邁の二つ下でほぼ同世代。ブント内の序列ではやっと尉官クラスになるワセダ二文・平岡と、気づけば佐官クラスに上り詰めていた東大駒場・西部の比較も面白かろう。西部も晩年は自叙伝めいた本ばかりをものしていた。
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我流で読み解くシンガポール米朝首脳会談

Posted by Ikkey52 on 14.2018 政治   0 comments   0 trackback
 「世界中が茶番劇に振り回された」。シンガポールで行われた米朝首脳会談を現時点でそう総括しても、強い反論はないだろう。無理やり評価点を探すとすれば、朝鮮半島で武力行使が行われる可能性が当面のところは遠のいた、ということのみだろうか。いや、内外メディアの評価を総合すると、それすら怪しいということになる。

虎金会談
Photo by:Reuters/Aflo from Diamond Online

取材対象がたかだかバイ(二国間)の会談なのに、NHKは100人、BBCに至っては200人を現地取材に動員したとされる。表向きの結果からみると、サプライズがあるぞとトランプ政権に匂わされ、それを無邪気に信じて大デレゲーションで臨んだ各国のメディアの骨折り損だ。株を挙げたのは、たっぷり外貨を落としてもらった上に、ちゃっかり世界規模の観光PRにも成功した開催地シンガポールだけに見える。

 合意文書のつまらない内容は、ソン・キム駐フィリピン米国大使と崔善姫北朝鮮外務省副相ら事務方の事前協議であらかじめすり合わせが行われたものだろう。文面に現れないところで、何が話し合われたかが問題だ。そもそも米朝の首脳が直接顔を合わせるというシナリオは、誰によって何の目的で書かれたか。会談設定当時まで遡ってみると、説得力ある解説が見つかった。共同通信外報部で英語のニュース記事を多読し、その読み解きを職業としてしまった田中宇(さかい)の分析だ。

 トランプと金正恩が会い、和解的な共同声明を出せば、米議会に抵抗があっても、米朝の対立は大きく緩和される。少なくとも、敵でも味方でもないという関係が作り出せる。そうなれば北は米国を気にせず南との和解に歩み出せる。南北が和解すると、在韓米軍の必要性も低下する。「世界の警察官」役を降りると宣言して大統領になったトランプの立脚点は多極主義、反軍産複合体だから、トランプの狙いはそこだ。実際、トランプはシンガポールでの記者会見で在韓米軍の撤退に言及した。本音は見えていたのだ。

 「かつてレーガン大統領は側近陣に好戦派を配置し、当初ソ連を『悪の帝国』と呼んでことさら敵視したが、最後はソ連と決定的に和解し、軍産複合体が永続化したかった冷戦構造を終わらせた。トランプにとって今回の米朝首脳会談の設定は、レーガンがゴルバチョフとの会談・和解を決定した『レーガン的な瞬間』である」と田中は予測した。
 
 CVIDという省略形は、イラク戦争の際、「完全かつ検証可能で、不可逆的な武装解除(Disarmament)」と解され、以来、米国が気に入らない国を潰す時に押し付ける条件として事実上知られるようになった。同じ略語が北朝鮮に使われる場合は最後Dが非核化(Denuclearization)に変わるが、アメリカがCVIDを正恩に迫れば、北は「どっちにしろやられるのだ」と硬化しかねない。その証左に、「リビア方式でやるぞ」と、ハードライナーのボルトン大統領補佐官が観測気球を上げたところ、北は滑稽なほどの慌てふためきぶりを示した。北の暴走でソウルが火の海になれば、朝鮮半島のことは南北朝鮮の間で解決させたい多極主義者のシナリオは狂う。だから、シンガポールの首脳会談はああした形に納まったのだ、と解すれば、たしかに無理はない。

空費されたデータと時間…フクイチ訴訟の判決相次ぐ

Posted by Ikkey52 on 28.2018 原発   0 comments   0 trackback
 2011年3月の福島第一原発事故から7年。事故は人災だとして東電や国の責任を追及する集団訴訟は全国で約30件を数え、判決も7件が下りた。これらの訴訟の争点のひとつは、「東電が巨大津波を予見できたかとうか」だが、国が被告になっている5件中4件で、予見可能性が認定された。月刊誌『グリーン・パワー』2018年6月号の記事「環境ウォッチ」の指摘から拾ってみる。

(2012筆者撮影・大震災で焼失、流出した石巻のかつての住宅密集地)

 責任論を探るには、津波の高さに関する論議の推移をたどるのが判りやすい。
 02年3月、すなわち大震災の9年前、東電はフクイチに関する津波想定高を5.7メートルに引き上げた。ところが同年7月、政府の地震調査研究推進本部が「大津波を伴う地震の可能性がある」との立場から長期評価を発表、東電はこれに基づいて津波規模予想の再検討を迫られた。 
 外部委託していた再検討の結果が出たのは08年3月、すなわち大震災の3年前だった。津波の最大高は15.7メートルになるという。それまでの東電の想定の3倍だ。「津波想定最大高15.7メートル」というショッキングな数値は、同年6月の東電社内会議で報告、共有された。
 東電で津波対策を検討する部署にいた技術者が東京地裁の法廷に証人として立った。証言によると、東電内では当初、新しい数値に基づいて対策をとる新方針が確認され、他の電力会社も東電に追随する方向だった。たが、東電は翌月の会議で「会社は長期評価をとりあげない」と方針を突然ひっくり返した。戸惑う他電力に東電は技術者を走らせ方針転換を説明して回ったという。 証人は当時の気持ちを法廷で問われ、「力が抜けた」と答えた。
 「縮小版(by IATA Imagebank)
 08年の夏ごろの東電は、前年の中越地震で多くの原発が止まり、支出を惜しんでいたらしい。経費抑制の目的で低い想定高を前提に工事案を練り、09年6月ごろ国の原子力安全・保安院に提出する予定だったが、延期された。やはり「15.7メートル」は無視できなかったのだろう、当初方針通りの対策案を正式に保安院に提出したのは、震災のわずか4日前だった。3・11当日、フクイチに到達した津波の最大高は15.5メートル。もし、東電が安全を経営陣の保身の犠牲にすることなく、「15.7メートル」という数値を得た段階で、誠実に行動を起こしていたら、フクイチ施設が地震の揺れにやられることはあっても、全体のダメージはもっとずっと小さくなったと思われる。

 「誰も予想できない巨大津波が来て、仕方なかった」という言い訳は、あの日、我々がテレビに映し出される生々しい映像に言葉を失った当時なら、説得力を持ったかもしれない。しかし、民事訴訟の進展に伴って、東電や国の化けの皮は剥がれた。「対策をとるデータも、時間もたっぷりあった」と判ってしまえば、もはや責任逃れの言葉としか響かない。 
 

いま思い起こす日大闘争の端緒…日大アメフト部反則アタックを巡って

Posted by Ikkey52 on 23.2018 事件   0 comments   0 trackback
 日本大学アメフト部の選手が、試合中に無防備な状態の関西学院大学の選手に後ろからタックルし、けがを負わせた問題がニュース・シーンを賑わせている。最近のマスメディアのニュース・センスや報道姿勢に、自分は疑問を抱くことが多い。この件に関しても、「たかがアマチュア・スポーツの悪質反則程度の話で、なぜここまで集中豪雨的に報じる必要があるのか」と、さっぱり理解できなかったが、報道を何気なくフォローするうち、背後に広がる闇の深さがようやくわかってきた。元凶は大学の経営体質だ。

 最初におことわりしておくが、自分は清も濁も併せて存在するのが現実世界だと思っているので、「SNS世論」が匿名をいいことに垂れ流す「きれいごと」には辟易しているし、企業不祥事の謝罪会見でお約束になってしまった経営幹部らの平身低頭ぶりもうんざりだ。そうではあるが、今度の件で、日大アメフト部、というより学校法人日本大学の取り続けている往生際の悪い、タイミングを失した対応には、やはり驚きを禁じ得ない。ひょっとしたら、世間一般の集団、団体とは全く違う行動原理に支配されているところなのではないか。しかも病根は、いまどき流行らない経営トップ(田中英壽理事長)の個人独裁らしい。100億円からの私学助成金を吞み込んで、危機管理学部まで持つ組織の在り方としてはいかにも時代錯誤だ。

 教職員組合が経営陣一新の声をあげているが、所属組織のコンプライアンスに絡んで労働組合がそこまで言うというのは、労使関係が破綻している証左だ。そこで思い出すのは日大闘争。もう半世紀も前のことになる。いわゆる70年安保に向けて全国の大学、短大、高校、ところによっては中学でも燃え盛った学園闘争のなかでも、大衆運動のモデルとなった最大の戦いだった。安田講堂の攻防戦が印象に強く残る東大全共闘の戦いとよく比較されたが、政治はもとより母校を取り巻く情況にも関心の薄かった一般学生を目覚めさせ、広範に共感を広げ、直接行動に立ち上がらせた手腕に関する限り、あの日大全共闘のそれとは比べものにならない。
日大闘争
(日大全共闘HPより)

 日大全共闘には秋田明大、田村正敏ら傑出したリーダーがいた。秋田らが敵として見据えたのは、当時の学園経営トップ古田重二良会頭だったが、この古田が典型的な独裁者。裏口入学、不明朗な経理処理、右翼や暴力団を使った学内反対派潰しなどが次々暴かれ、世間をあきれさせた。日大全共闘後段の戦いのなかでは、「日大アウシュビッツ体制」なる呼称も使われた。

 暴露的なネット情報は、眉に唾して見なければならないが、探してみたところ、いまの日大全体を牛耳っているとされる現理事長田中英壽と著名な暴力団組長とのツーショット写真が出てきた。田中日大理事長と司忍六代目_convert_20180523221340相撲部OBだという田中の堂々たる押し出しは現代極道のドンと並んでも何ら遜色がない。田中の力の源泉は体育局だという。その事務局長に法人ナンバー2の理事である内田前アメフト監督を人事担当としておき、睨みをきかせているとの解説もある。真相はいまひとつわからない。

あらためて"巨人・西部邁ロス"を論ず

Posted by Ikkey52 on 17.2018 評論   0 comments   0 trackback
 西部邁には“人生最後の著作”と銘打った自著が何冊もある。全くの偶然だが、最晩年の3冊を読んでいたものだから、西部の自裁それ自体には、実はさほど驚かなかった。それらの著書で西部は、しきりに自分の生は自分自身で終わらせるという決意を表明し、その具体的方法についても、当初思い描いていた計画が実現不可能になった事情も含めて、詳細に語っていたからだ。ただし、いくら言行一致がこの言論人の真骨頂だったとはいえ、付き合いのあった人、一人ひとりに感謝の電話を架け、明鏡止水を窺わせる状態で入水していったことを想うと、深い感慨に捉われてしまう。連れ合いに先立たれ孤独の淵を覗いた知識人の自殺として、江藤淳のケースを引き合いに出す論者がいるが、あまり良い比較とは思えない。

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60年安保闘争の先鋭化した部分を担った東大ブント、駒場全学連幹部として、「権力」の側から見れば、憎き扇動者だった。機動隊との衝突で3度も逮捕され、本人自身が実刑以外にないと腹をくくっていたのに、裁判長の温情で執行猶予が付いた。お祭り騒ぎが終わったことを悟り、潔く闘争から身を引いた。「ひと暴れしたかったから学生運動に走っただけで、マルクスもレーニンもまるで関係なかった」というのが、のちの西部の言だが、本音だろう。学部を卒業して大学院に進学したが、やさぐれた心境のまま小博打にのめり込む。徹夜明けの疲れた頭で、恩師の宇沢弘文さえ解けなかった数理経済学の数式を考えたら、解が浮かんだ。それが宇沢に激賞され母校の教授への道が開けた。多くの学生活動家仲間が、その後険しい人生の道のりを歩むなかで、西部は稀有な成功者になったかに見えたが、暴れ馬の本性は消えない。

 西部が教鞭をとったのは、経済学部ではなく教養学部。学生たちに講じたのは経済学ではなく経済学批判だった。その際、自分の足場として援用したのは、社会学、哲学、言語学などだった。社会科学としての経済学の未熟を指摘していたことになる。求められているのは学際的姿勢だと言い続けた。ジャンルに囚われない言論活動に共鳴して若い中沢新一を東大教授に迎えようと先頭に立ったが、教授連の裏切りにあって招聘計画が潰れると、学者バカへの激烈な批判を残して、あっさりと教壇を去った。200万円の退職金を受け取って素浪人となった。

 いわゆる「朝まで文化人」の一人として、広くテレビでも認知されたあとは、戦後の日本と日本人のあり方を問題とした。「平和と民主主義」というが、いまの平和はアメリカの核の傘のなかの平和ではないか。民主主義といってもその中身はポピュリズム(西部は皮肉を込めてあえてポピュラリズムと呼んだが)に過ぎないではないか、と。『大衆への反逆』と題した著作があるように、西部の戦後日本人に対する失望は年を追うごとに膨らみ、最後はニヒリズムに近い地点にまで立ち至っていた。これだけ訴えても、誰も聞く耳を持たない。同胞の命と財産を守るために、何らの覚悟さえ持たない国民に未来などない、と嘆いた。

 自ら言論誌を主宰するようになったこともあるが、核武装論を唱え始めてからテレビには敬遠されるようになったのではないか。彼の原発容認論だけは、どうしてもいただけなかったが、深い教養に裏付けられた世界認識といい、人間理解といい、文明批評といい、日本人思想家として飛びぬけた存在であったことに、異論を挟む余地はないと思う。ただし、西欧思想を縦横に取り入れることができる頭脳であったせいで、吉本隆明のようにオリジナリナルなキーワードを創造しなくても、現代の日本と世界をあれこれ不自由なく解釈できたことは、ある意味で思想家としての背丈を大きく見せられなかった恨みがあるだろう。
  

プロフィール

Ikkey52

Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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