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「北朝鮮を植民地にしたい」…見えてきた隣国の皮算用

Posted by Ikkey52 on 11.2017 北朝鮮   0 comments   0 trackback
 「世界の警察官」役を降りたはずのアメリカが、シリア内戦でサリンの使用が疑われるシリア政府軍の基地に巡航ミサイルを撃ち込んだ。「警察官」に復職したわけだ。そうなると、国連酒場の客の中でも折り紙付きの鼻つまみで、何度咎められても核ミサイル開発という危険な火遊びをやめない北朝鮮が、次なる取り締まり対象になるだろうとの予測はきわめて自然だ。

 「北朝鮮が潰れないのは、中国、ロシア、日本、韓国といった周囲の国々のすべてが、潰れてもらっては困る個別事情を抱えているからで、隣国は一致して潰れない程度の国家存続を望んでいる」と、一昔前の朝鮮半島研究者は解説したものだ。主に難民流出とそれに伴う食糧問題が理由として挙げられていた。ところが時代は変わった。各国は北朝鮮の植民地化を狙い始めているというのだ。どういうことなのか。

 今や食料危機に陥る心配のない金満中国は、朝鮮戦争休戦以来、国際社会から見えないところで北朝鮮を支え続けたツケを、北朝鮮北西部の併合で支払わせようと狙うはずだ。習近平政権は、それでなくとも領土領海拡張主義の権化だ。また豆満江を挟んで北朝鮮と隣接する延辺あたりは朝鮮族の自治州でもあり、歴史的経緯を領土簒奪の大義名分に持ち出すかもしれない。

 ロシアは、シベリア・極東開発を経済起爆剤にしたいが、人口減が続き、労働力が決定的に不足している。一方、アムール川をはさんで対峙する中国側の東北三省には1億人の人口がいる。シベリア・極東にロシア人の定住者を呼び込むには、インフラの早期整備が欠かせない。手をこまぬいていては、経済面から中国に飲み込まれるかもしれない。これは恐怖だ。北朝鮮の安い労働力をシベリア・極東開発につぎ込めるかどうかは、これからの国土保全に大きく関わってくる。

 韓国は、大国の仲間入りするために大きな人口が欲しいうえ、国内の10分の1という北朝鮮の安い労働力もそのまま取り込みたい。かといって、東西ドイツ統合当時の西ドイツのような経済負担はしたくないから、韓国の意のままになる傀儡政権ができるのが理想だ。労働力価格の二重構造、三重構造は、中国の強さの秘密だが、そのことを韓国の経済人たちが知らないわけがない。もうひとつ、うまくすれば核のボタンも労せずして握れる。「大国になりたい病」患者にはたまらない魅力だろう。

 北の政権が潰れ、韓国に吸収されるにせよ、国際協調性のある新政権に置き代わるにせよ、韓国の軍事費とアメリカの駐留軍負担は大きく減る。在日米軍基地の展開にも朝鮮半島有事の対応は織り込まれているから、それも併せて軽減されるとなれば、アメリカのメリットもけして小さくはない。ただし、どさくさ紛れに中国の軍事プレゼンスが半島周辺で増大することは、アメリカにとってネガティブな要素になる。

 朴槿恵を韓国大統領の座から引きずりおろした大衆運動は、左派=親北派の影響下にあったという。その左派に支持され、次期大統領選前哨戦でトップを走る文在寅は「当選したらワシントンよりさきに平壌に行く」と公言した。暴走しっぱなしの金正恩と何を話し合おうというのか。前記の北朝鮮周辺各国の皮算用を踏まえるとき、朴槿恵のほうがよほど現実的な政権運営をしていた気がして仕方がない。
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一流紙の元記者が陥った功名心の罠…映画「トゥルー・ストーリー」

Posted by Ikkey52 on 03.2017 映画   0 comments   0 trackback
 記者たちの世界では、野心を漲らせ、功名心をむき出しにしても、それだけで人格が疑われるようなことはない。ある意味、珍しい商売だ。一般的な読者、視聴者が複数メディアを虫の目で毎日チェックしているわけはなく、したがって、どの社の報道が一番速かったのか、一番深かったのか、などは所詮自己満足だという批判がある。その通りだが、かといって、鎬を削る競争が優秀な記者を育てる苗床となるのも一面の真理ではある。

 2015年の米映画「トゥルー・ストーリー」は、身から出た錆で一流紙記者としての未来を棒に振った男が、一発大逆転の再起を狙って、拘置所で裁判を待つ妻子殺しの容疑者に近づいたものの、重苦しい心理戦に巻き込まれ、きりきり舞いさせられる。実話に基づく。

 マイケル・フィンケルは風采こそ上がらないが、ニューヨークタイムズで今売り出し中の若手記者。最近もアフリカまで出かけ、農場で奴隷労働さながらの体罰がまかり通っていると、筆鋒鋭く追及した署名記事を掲げた。その反響は思いのほか大きく、気をよくしたフィンケルは、ひょっとしたら何かのノンフィクション賞が獲れるかも、とひそかに己惚れる。ところが編集局は、後日、記事の捏造に気づく。フィンケルは厳しい査問のすえ社を追われ、雪深いモンタナの田舎に帰って悶々とした日を送る…。

 やがてフィンケルは、オレゴン州で妻子殺しの容疑者として拘置所に繋がれ、裁判を待つ身のロンゴという男が、逮捕前メキシコに逃亡中、自分の名と当時の肩書を騙っていたのを知って興味を持ち、接見に向かう。「なぜ自分の名前を?」と尋ねる初対面のフィンケルに対して、ロンゴは「あんたの記事が好きだったんだ」と素朴に応えたが、その一言は賞賛が大好物であるフィンケルの心のツボを見事に射抜く。また、素直に事件の真相を騙ろうとしないロンゴの思わせぶりな態度も、フィンケルの取材マインドに火をつけた。

 彼は頭を巡らせた。「ロンゴは事件に関して言うに言えない秘密を抱え込んでおり、真相は警察や検察官の筋読みとは違っている。自分の取材力をもってすれば、ロンゴは心を開き本当の話(トゥルー・ストーリー)を打ち明けるだろう。それが冤罪ともなれば出版に値するし、本は必ず売れる。ジャーナリストとして自分は華々しく再出発できる」。そう単純に信じて、のめり込むようにロンゴとの接見を重ねて行くうち、次第に野心の鬼と化すのだが、蓋を開けた裁判はフィンケルが予期しない方向へ…。

 演出は無骨そのもので、隠し味やどんでん返しがあるわけではない。冒頭近く、フィンケルがニューヨークタイムズの編集幹部から受ける査問で、記事捏造の嫌疑を認めながら、「読者が喜ぶ記事を書いただけだ」と虚しい言い訳をするシーンがあるが、それが唯一、伏線らしい伏線になっている。小から大へ、企業転職を繰り返すことで出世の階段を上るアメリカの若い活字ジャーナリストのヒエラルヒーにあって、ニューヨークタイムズの記者職はいわば頂点のひとつ。上昇志向が強い記者たちのなかでも勝ち組だ。だから、その地位を維持するために相当なプレッシャーを感じるはずで、ひょっとしたら、真実の追求よりも、読者の受けを優先するような倒錯に、つい足を取られてしまうのだろうか。

安心と安全…昨今のニュースから

Posted by Ikkey52 on 31.2017 ジャーナリズム   0 comments   0 trackback
 那須高原で、栃木県下の高校から集められた山岳部員たちが、訓練中に表層雪崩に巻き込まれる惨事が起きた。当初の予定を悪天候のため急遽中止して、代替プログラムに取り組んでいたさなかの事故であり、いっそう悔やまれる。事故が各メディアで一斉に大きく報じられると、例によって責任の追及が過熱した。

 責任追及の大義名分はもちろん事故の再発防止だが、ワイドショーのコメンテーターたちは、誰かスケープゴートを見つけ出し、やり玉に挙げるのがおのれの存在理由とでも心得ているのか、ただでさえ打ちひしがれているはずの引率教師、訓練主催者たちを叩きに叩いている。結果は重大で刑事責任が問われるのは避けられないにしても、なんとも寒々しい。

 高校の部活となっているスポーツで、「登山」が最も危険と隣り合わせであることを知らない者はいない。逆にいえば山岳部活動は、牙をむく自然の脅威のなかで、どう自分と仲間の命を守るか、そのスキルを磨くのが目的だろう。とすれば、たとえ訓練であってもリスクはゼロにまでは低減されない。猛訓練の末、四季ごとに様々な貌を見せる山岳に登山者が知見を深め、不安を感じなくなることはあるだろうが、絶対大丈夫とは言い切れない。

 いつのころからか、「安心安全」という言葉を役人が使い始め、民間人もいまや平気で重宝がる。こういう鈍感で安直な言葉の使い方は大嫌いだが、豊洲移転問題ですっかり悪役になった東京都元知事、石原慎太郎が、現職知事への逆襲として「安心と安全を取り違えている」と言い放ったのをテレビで聞き、多少溜飲を下げた。「安心」は主観の問題だが、「安全」とはそうではなく、あくまで客観的事実だ。ニヒルにいえば、世の中に想定外の死がある以上、人命に対するすべての安全対策は、実は「安心対策」に過ぎないのかもしれない。

 「取り違えている」といえば、ネットとワイドショーの相乗発信で、意味の違う追及がごっちゃにされて「祭り」以上の大騒ぎになっているのは、籠池問題も同じだろう。問題の本質は、払下げ前提の官有地貸与のプロセスと、公的補助金支出の認可に、不正があったかどうかであって、安倍昭恵と籠池夫妻の連絡役を背負いこんだ首相夫人付女性の行為が、公務か否か、などはむしろ枝葉だろう。

 そもそも籠池が、政治家や役人に賄賂も贈らず、逆に首相夫人から多額のカンパさえ出させたうえ、法に触れることなく役所を思い通りに動かしていたとすれば、天才的実業家ではないか。もっとも、多くの国民はテレビに映る籠池という男にうさん臭さをかぎ取っている。だいたい、卒業大学の学部、就職先の官庁名に嘘を並べ、ばれるとアルバイトのせいにするような人物だ。その言い分に、国権の最高機関がいつまで振り回されているのか。

 籠池問題の陰にすっかり隠れてしまっているが、文科省の天下り天国ぶりも軽く考えることはできない。一言でいえば悪質だ。3人の次官のもとで60数人もの役人が、ルール破りを容認され、いや役所ぐるみの支援まで受けて、おいしい思いを続けてきた。一方、監督官庁に諂(へつら)い、下心丸出しで再就職枠を差し出したなかには、有名私大がずらり並ぶ。高邁な建学の精神はどこへ行った。被害者ズラなどさせるものか。

 福島県の大舘村など3町村の避難指示が3月31日付で解除されるのも大ニュース。フクイチ事故汚染で、安全とはとてもいえない故郷に、期限切れを理由に元住民たちが否応なく追い返される。人々の里心に付け込んで安心幻想を振りまき、原発事故の風化を目論もうとの意図は見え透いている。メディアは厳しく検証すべきだろう。

「報道の消費」に抗い続ける天才記者の戦闘記録…清水潔『殺人犯はそこにいる』

Posted by Ikkey52 on 13.2017 冤罪・ジャーナリズム   0 comments   0 trackback
 3月11日の金曜日、地上波テレビの夕方ニュース・ゾーンは、各局とも6年を迎えた東日本大震災関連特集でおおかた占められるはずだった。ところが、森友学園理事長の突然の記者会見を生中継せざるを得なくなり、発局側の予定調和はあっさり崩された。それだけではない。韓国憲法裁判所による大統領朴槿恵の弾劾決定と、南スーダンPKOからの自衛隊撤退を発表する安倍首相のぶらさがり会見まで飛び込んできたから、震災関連ニュースは相対的にすっかり霞んでしまった。「報道」は消費されるもの、ということが実感としてわかる。

 清水潔の『殺人犯はそこにいる~隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』は、消費されるものとしての「報道」の有り方に、真っ向から抗い続けるベテラン記者の生々しい戦闘記録だ。清水といえば、桶川ストーカー殺人事件が、助けを求める被害者になんら手を差し伸べなかった警察の大失態であることを暴いた天才的取材者だ。無実の無期懲役囚を再審無罪に導いた足利事件報道もこの男の執念の取材の成果だった。

 指紋が出なければお手上げだった犯罪捜査に光明が差したのは20世紀も後半。DNA型鑑定の登場によってだ。判例をつくることで証拠能力にお墨付きを与えたのは、その足利事件の上告審だった。判例を得て日本の警察、司法当局はDNA型鑑定を無敵だと考えた。だが、科学の領域の話だ。だれが鑑定しても同じ結論にならなければいけない。また、科学である以上、鑑定方法も日々進化するはずで、導入初期にあっては古い鑑定結果が後世の新しい鑑定方法で否定されることもありうる。アメリカでは、200人もの服役囚が新しいDNA型鑑定でシロだとわかった。証拠のひとつかもしれないが、絶対的決め手と考えてはだめなのだ。

 日本の警察、司法の現場は、起訴後の有罪率が100%に近い。だから、恐ろしいまでの高打率に縛られ続ける。その結果どうなるか。ともすれば「筋読み」通りの証拠固めが優先され、真実の追求がおろそかになる。DNA型鑑定が「一致」と出たら即逮捕。後は勾留した「容疑者」を「筋読み」に矛盾しないように自白させればいい…。そこに自白強要の余地が生まれる。「一度固まった筋読みが揺らぐのは恥であり、まして証拠能力ありとして刑事裁判でいったん採用された鑑定が、再鑑定で結論が覆るなどということは『あってはならない』組織的屈辱」と見なす感覚が冤罪を生む。 

 清水にとって足利事件の菅家利和の無実を証明することは、ゴールではなくスタートだった。冤罪問題が自分の中心テーマではない、とまで清水は言う。逮捕当時、菅谷は栃木県警の調べに対して足利事件を含む3件の類似事件の犯行を「自供」している。その全てで起訴され有罪になっていたら、死刑判決は確実で、菅家はもうこの世の人でなかったかもしれない。不幸中の幸いだったのは、残りの2件が不起訴になっていたことだ。捜査不十分な他の類似事件まで菅家に「背負わせよう」としたところから見ても、警察にはすでに分っていたはずだ。栃木、群馬の県境にまたがる半径わずか10キロの範囲で1979年から96年にかけて、5件もの類似事件が起きていたことを。

 どんな大きなニュースが飛び込んできても、忘れてくれるなよ、と清水は言いたいのだろう。北関東連続幼女誘拐殺人事件の犯人が今も生きて、あたりをうろついている。犠牲者がまた出る可能性がある。報道の役割は、それを未然に防ぐこと。それ以上でもなく、それ以下でもないと。逃げ延びている真の容疑者にインタビューまでした「取材の鬼」の粘着力に圧倒される。

キング・オブ・シルクのホットな過去…『自由に生きていいんだよ』

Posted by Ikkey52 on 07.2017 書評・アジア情勢   0 comments   0 trackback
 いっときのファッションでなく、また、何かからの逃避でもなく、アグレッシブに人生を追求した結果、スローライフに帰着し、実践している人は眩しい。自分など、爛熟した資本主義社会にどっぷり浸かり、あくせく人生を送ってきた俗物だが、そんな人間であっても、本物のスローライフを生きる人の息吹に触れると、清々しい感覚を覚える。

 森本喜久男は本物だ。カンボジアの果てに手作業だけによるシルク工房をつくった。「工房」といっても、人口70人の村だ。うち子供が約30人いて学校もある。東京ドーム5個分の広さの敷地には、蚕を育む桑の森がある。戦乱続きでほぼ死滅しかけていたカンボジア・シルクの伝統を森本はここで蘇らせた。内外から村を視察にくる見学者が途切れない。2016年には2000人を超えた。ラルフ・ローレンや稲盛和夫も来た。

 こう書くと、何やらエコロジーに理解ある日本の国際派実業家が、ポケットマネーでつくったカンボジア復興事業の文化版実験室のように思えるかもしれない。しかし、村は紛れもなく、カンボジアの農民たちが牛10頭とニワトリ100羽を飼う暮らしの場だ。各国の観光地によくある歴史文化村の類いとは違う。いまや、染め物の手を動かしながら、おしゃべりに興じる母親たちのまわりで、子供たちが跳ね回り、男衆は夕餉の魚を求めて川に舟を浮かべる。老人も新参者もみな役割を楽しむ。驚くべきことに、村の基礎は森本が一人で荒れ野に鍬を下ろして築いた。森本とは何者か。

 来年古希を迎える森本は、弟子を何人も抱える京友禅の親方だった。「あくせく村」の住民からすれば、成功者に違いない。しかし、森本はその立ち位置に飽き足らなかった。大御所になって、伝統工芸士に任じられて…、それでいいのかと迷いに迷った。バンコクのスラムで奉仕する女性社会活動家との偶然の出会いからタイに渡り、シルク販売で成功しかけたが、それにも飽き足らない。

 中学のころ理不尽な2度の鑑別所送りを経験した。定時制高校時代にも間尺に合わない退学処分に遭った。新卒社員として旧電電公社に採用されたが、政治の季節に遭遇し、日韓、横須賀米原潜反対、三里塚、東大といった各闘争を労働者反戦の活動家として戦い、ついには自主退社を強制されもした。その間、食うために土方、左官屋、電気工、沖仲仕など、なんでもやった。若い日の労働体験から森本は、いつのまにか、流転することを恐れなくなり、同時に、ちんまりと収まりかえる人生を自分には似合わないものだと、思いなすようになった。言葉を換えると、全く守りに汲々としていない。

 インタビュー構成、『自由に生きていいんだよ』(聞き手・高世仁)で森本は、夕方からの5時間しか電気が通じない自分たちの住処を、「貧しい村」と呼ぶ一方で、「貧しい村はちっとも貧しくない」という。シルクづくりに関わる村人には給料が出るが、金がなくても食べて行けるので、給料を取りに来ない人もいる。フランスの思想家プルードンは「財産は盗みだ」と断じたが、森本は「所有に意味はない」と語る。現代の豊かさはカネとほぼ同義に響きがちだが、財産、所有という概念は、原初の人間社会にはなかったはずだ。それにしても「社会主義」とか「宗教」とか、特定イデオロギーを微塵も媒介しないで、能力に応じて働き、必要に応じて取るコミュニティを実現させているのは驚異だ。村を率いる森本は、コンビニと100円ショップが溢れる社会に批判的だが、「インターネットは素晴らしい」とも述べ、図書を漁り、世界情勢にも目を配る。文明を拒否するだけの田園の仙人でないところが味噌か。
  

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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