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歯ごたえあり過ぎのベストセラー『応仁の乱』に気づかされたこと

Posted by Ikkey52 on 19.2017 文芸批評   0 comments   0 trackback
 ベストセラー本を追い求める趣味はないが、マーケティングの僕(しもべ)のような新刊が溢れる時代に、日本人一般の間で認知度が必ずしも高くない「応仁の乱」を取り上げ、日本中世史の最新研究成果を武器に、堂々直球勝負に出た新書が、店頭で長く売れ続けているというので、恐る恐る手に取った。自分のような日本史音痴にとっては、清水の舞台から飛び降りるような気分だったが…。

 結論からいえば、当初は投げ出したい気持ちにも駆られつつ、興味はなんとか持ちこたえ、どうにか最後まで通読できた。構成は前半と後半で異なる。前半は試練の道のり。ひたすら史実が速いテンポで語られていく。登場人物もどんどん増える。人名には初出時こそルビが振られるが、その読みをつい忘れてしまうし、改名する者も一人二人ではないので骨が折れる。ときおり、簡略化された家系図が出てくるのがせめてもの救いだ。

 しかし、後半は打って変わって、流れが穏やかになり、読者には考える余裕が与えられる。久しぶりに出てくる人名や出来事には、参照すべき初出ページが親切に示される。著者の呉座勇一はまだ30代という気鋭の学究。全国紙の日曜版にユニークな日本史コラムを書いている人物として名前だけは認知していた。『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』で呉座は、先達の研究者の意見や解釈を頻繁に実名付きで紹介する。歴史上の人物の心の中の動きを巡って、研究者間には様々な見解の相違があることをあらためて知らされた。

 日本の歴史、ことに中世史ともなれば、定説が完全に固まり、新解釈など入り込む余地はまるでないものだと、これまで自分は勝手に考えてきた。ところが、1970年代になって提示された説があり、つい最近、発表された研究成果で、これまでの定説を覆すようなものもある。例によって戦後まもなくは、階級闘争史観に基づく解釈が全盛で、そこから外れた見解は異端として排除されたらしいが、いま人文科学の一分野として日本中世史研究はずいぶん活性化しているようだ。

 応仁の乱を端的に表現すれば、「室町幕府八代将軍足利義政配下の武将らが東西両軍に分かれ、十数年に渡って京都をはじめ畿内を中心に繰り広げた内戦」だ。その内情は、味方が敵に回ったり、その逆であったりと実に複雑で、だからこそ誰の責任で引き起こされ、なぜこれほど長期間にわたって収束不能だったのか、ひとことで片づけるのは極めて難しい。

 忘れてならないのは、本書を書き上げるにあたって呉座が、記述をベースに、性格のまるで違う二人の高僧の見解を選んだこと。ひとりは九条家出身の経覚、もうひとりは一条家出身の尋尊だ。ともに格式高い奈良・興福寺の最高職である別当を経験し、公家の出でもあることから天皇家に近いだけでなく、室町将軍家とのパイプも太い。

 それだけならば単なる体制派だが、2人はそれぞれ関係深い寺社所有の荘園を新興武装勢力の侵略から守るため、表舞台に現れては消える数々の軍事リーダーたちと、あるときは細心に、あるときは大胆に切り結んだ。したがって、ともに情報の収集と分析にはずば抜けたものがあり、それが本書全体に大きな説得力を与えている。

 もうひとつ、日本史音痴としてあらためて呉座本から教えられ、目からうろこが落ちたのは、当時の主君と家臣の関係について。どうも江戸期の知識ばかり強く刷り込まれてきたせいか、武家社会の主従関係を絶対的なものとみてきたのだが、実はそうでもなく、応仁の乱当時、主従の関係はいかにも淡泊だ。個人的損得が合わないとみれば、家臣は躊躇なく主君を換えるし、主君の側も裏切った家臣を深追いしない。それどころか、機が熟せば、裏切り者だった家臣に対しても鷹揚に赦免を与える。

 征夷大将軍の役割も、朝廷からお墨付きを得た軍事独裁者というイメージには程遠く、安定性を欠いた大名連合政権のうえで、かろうじてバランスをとっている張りぼてのような存在に思えた。また、管領職といえば将軍家の代貸にあたるが、責任を負いたくないために将軍から管領就任を求められても謝絶したり、あるいは行事に必要な時だけご都合主義的に短期間その地位に就くなど、ひどく人間くさい政権だったのだと、あらためて感じた。

 それにしても、こういう歯ごたえのある歴史書がどうして発売から30万部以上も売れるのか。日本の読書好きたちのレベルが高いということか。それともベストセラーと聞いて、大勢からの脱落を恐れる心理が働いたのか。どちらかといえば後者に近い不純な動機でページを開いた自分としては、ぜひともその真相を知りたいところだ。
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父は慰安婦問題捏造の詐話師…現状に堪えかねた息子が動いた

Posted by Ikkey52 on 14.2017 書評・事件   0 comments   0 trackback
 「強制連行された朝鮮人慰安婦は8万4千人」。そう類推した元毎日記者、千田夏光の『従軍慰安婦』(1973)を、古本屋で手に入れて読んだのはまだ20代のころ。ショックだった。そして正直に告白すれば、千田の指摘をかなり長いこと露ほども疑わなかった。いまではトンデモ本の類いだったことがわかっている。著者の千田本人も上梓後「書き過ぎた」と不安に駆られたのではないか。「強制連行の実行者」として吉田清治が名乗りを上げたとき、真っ先に連絡してきた職業ライターは千田だったという。

 かといって、千田本がいわゆる従軍慰安婦問題を燃え上がらせたのではない。日本現代史の泰斗、秦郁彦が「職業的詐話師」と呼んだ吉田清治こそ真の“放火犯”であり、火勢が弱まらないよう、次々と新たな虚言で火に油を注ぎ続けてきた“愉快犯“だった。そんな吉田に重い十字架を背負わされた長男が、せめて亡父の恥の象徴を後世まで残したくないと、ついにこの春、行動を起こした。大高未貴著『父の謝罪碑を撤去します』を読んで、長男の苦衷を察しない者はいないだろう。

 北関東在住の長男は翻訳を生業にする67歳。若いころから働きずくめで、病身だった母と弟を看取り、収入の安定しない父を養ってきた。それでも自分の殻に閉じこもることなく、地域の自治会で事務方を長く引き受け、東日本大震災では被災地ボランティアに繰り返し通うような高い公共意識の持主。慰安婦問題がここまで拗れなければ、平凡な一市民として静かに暮らせたはずで、なぜ実名で取材を受けないのか、と問うのは酷だ。

 吉田清治の罪はどれほど深いか。「たった一人の詐話師が、日韓問題を険悪化させ、日本の教科書を書き換えさせ、国連に報告書までつくらせたのである。虚言を弄する吉田という男は、ある意味ではもう一人の麻原彰晃ともいえないか」。かつて吉田に言及した猪瀬直樹の形容がすべてを物語っている。もちろん、吉田の虚言に便乗し、事実に目をつぶって、政府の認識不足を叩く格好の道具として利用したマスメディアも同罪だ。ただし、権威ある日本の報道機関は、3年前の朝日新聞を最後に、吉田証言に基づく過去の関連記事をほぼすべて取り消している。後世に残って困るのは、父が生前、印税をつぎ込み建立した謝罪碑だ、と長男は考えた。

 その謝罪碑は韓国・天安市の見晴らしのいい墓苑にいまもある。碑文は、吉田が架空の元「労働報国会動員隊長」の肩書で、戦中の強制徴用に手を染めた自分の罪を認め、謝罪する内容で、黒い大理石に彫られていた。除幕式があった昭和58年12月、吉田は碑の前で土下座のパフォーマンスまで演じている。その年の夏、吉田は済州島で200人の女性を拉致したと証言する『私の戦争犯罪』を上梓しているのに、碑文に「慰安婦」の文字は全くなかった。例によって辻褄が合わない。

 長男は、交渉事に強く行動力に富む沖縄在住の元自衛官を頼り、代理人に立ってもらって、墓苑管理者に問い合わせたところ、17万5千ウォンを支払えば、墓や碑に関わる工事はなんでも管理者側でやってくれることを確認した。ただ、謝罪碑の現状変更計画が事前に韓国側に漏れれば、「反日無罪」の国柄であり、どんな妨害に遭うかわからない。造作の変更に違法性がないのであれば、碑の所有者の相続人にあたる者が自己責任で工事を実施し、届け出を後回しにしてもルールを破ることにはならないと長男側は理解した。

 撤去のための重機持ち込みは目立ち過ぎて不可能だ。そこで代理人は、本文を省きハングルで「慰霊碑」とだけ彫った大理石板を夜陰にまぎれて運び込み、謝罪碑の上からぴったり重ね、専用の接着剤で剥がせないようにした。建立者名も架空の肩書付の「吉田清治」から、「吉田雄兎 日本国 福岡県」と本名に改めた。

管理者への届けは日本から郵送で行った。しばらくして韓国警察から代理人に出頭要請の電話が入った。代理人が「出頭する以上、容疑は何か知りたい」と聞き返したところ、先方は口ごもった。後続の連絡に対しては「公共のものを壊したというのなら、謝罪碑はいつ建立者の吉田から墓苑に寄贈されたのか、証拠で示してほしい」とも伝えた。返事はない。

 「日韓双方の皆様方に、父の虚偽証言を再度、謹んでお詫び申し上げます」。本書の結びに、著者の大高は、読者にぜひ伝えてほしいと長男から頼まれた言葉を掲げ、取材時の約束を果たした。掲載写真によると、いま新しい慰霊碑には、誰がやったのか、黒いビニールが掛けられ、文字を読めなくしてある。黒いビニールが隠しているのは、「大理石に刻まれた文字」ではなく、実は「事実」それ自体であることに、まだ気づかない人間がいる。「事実」のまえには、日本も韓国も、右も左もないではないか。自分がネットで調べる限り、現在まで韓国の主要メディアは、吉田清治の「謝罪の碑文」を長男が書き換えた件を、足並み揃えてほぼ黙殺している。

湖底の堆積物に嗤われる”温暖化危機説”の虚妄

Posted by Ikkey52 on 09.2017 地球温暖化   0 comments   0 trackback
 福井県若狭町にある水月湖(すいげつこ)は、面積約4平方キロの小さな汽水湖。この湖の底には、「年縞」と呼ばれる堆積物の年輪が過去5万年ものオーダーで、見事に残っている。最大水深が40メートル近くあること、大きな河川からの流入がないこと、酸素不足で生物が生息しないなどの条件が重なり、気の遠くなる年月、年縞が守られたのだ。いま水月湖は、地質学的時間スケールの世界標準として認められている。

 立命館大・古気象学研究センター(滋賀県草津)はその水月湖の研究で知られる。年縞の堆積物は遠い古代の気候を映す混じり気なしの証拠品だ。そこから、古気象学の手法で周期性を読み取るなどして、数年、数十年のスケールで変動する気候メカニズムの解明を目指す。センター長の中川毅教授のインタビュー記事を北海道新聞2017年6月9日付朝刊から引用する。

 「地球は10万年単位で寒暖を繰り返す。地球の公転軌道が楕円で、太陽との距離が時代で変化するからだ。過去の寒暖の温度差は十数度もあり、地球は放っておいても気候が変動する」と中川はいう。古気象学では地質のほか、化石、鍾乳石、雪が解けないでできた氷床などを分析対象にする。グリーンランドの調査では1万4700年前ごろ、数年の間に7度ほど気温が上昇したことが分かっている。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が、21世紀末までの100年間、何の対策も講じないと仮定して、上昇する温度予測は最大でも5度だ。中川は「過去を見れば気温の上下変動が激しかったことの方が多く、現代は極めて例外的に気温が安定している」と皮肉なことをいう。

 大きな火山噴火も気候変動要素になる。大気中に放出された大量の火山性粉塵が雲のなかで、太陽光を跳ね返すからだ。1993年の日本は、夏場の気温が平年より2度から3度以上も低い記録的冷夏で、米の全国作況指数は「著しい不良」の水準さえ大幅に下回る74にまで落ち込んだ。私事になるが、それまで暮らしていた南国マニラから帰国したばかりの自分は、大袈裟な表現でなく骨の髄まで冷える感覚をはじめて知った。そして、その異常気象が、取材に自ら駆け巡った91年のフィリピン・ピナツボ火山噴火の余波だと聞いて、二重に驚いた。

 IPCCが「地球温暖化」の元凶として敵視するのは工業化による二酸化炭素の排出だが、2005年に海洋地質学の立場から米バージニア大のウィリアム・ラディマン教授は、「二酸化炭素はヨーロッパでの木の大量伐採で8千年前から、メタンガスはアジアで広がった稲作の田んぼが発生源になって5千年前から、それぞれ増加を始めた」と発表した。もし森林伐採や稲作伝播など人間による経済活動がなかったとしたら、「氷期が到来していた」と推測したので学会に波紋が広がった。

 温暖化と寒冷化、どちらが人間にとって怖いか。中川によれば、温暖化は植物が成長し、光合成が活発になることで二酸化炭素が吸収され、気温の上昇にブレーキがかかる。ところが、寒冷化は氷雪が太陽エネルギーを反射してはね返すことで、いっそう寒くなり、暴走する傾向にある。今後1万年は地球上の氷は増えないというシミュレーションもあるが、仮にそうなった場合でも中川は「これを地球温暖化で困ったと考えるか、氷河期がこないでよかったと考えるかは、科学の問題というより、哲学の問題」と話す。

 「21世紀、太陽の活動は低下期に入り、地球を冷やす方向に作用する」と中川は予測する。太陽は、短期では11年程度、長期では210年程度の間隔で活動活発期と低下期を繰り返す。過去の活動低下期には、現在は凍らないテムズ川が凍結し、日本では飢饉が頻発した。

 「過去100年は太陽と人間が地球を暖めてきたが、今後の100年は活動が低下する太陽と人間の活動の綱引きとなる。こういう時代は不安定な気候になる可能性が大きい。最も怖いのは予測のつかない気候の不安定さだ」と中川の懸念は尽きない…。

 以下、再び私見を述べれば、以前からこのブログでIPCCの主張に疑問を呈してきた。温室効果ガスとしての二酸化炭素犯人説にも疑いの目を向けてきたが、中川はあっさりと「太陽と人間が地球を暖めてきた」と認めたうえで、「現代の気温は極めて例外的に安定している」との考えを提示する形で、IPCCの現状認識に婉曲に異を唱える。。地球誕生以来の46億年が、気候変動の繰り返しであったことをあえて軽視するIPCCは、やはり何らかのバイアスがかかった場だと自分には思える。

 もちろん、中国の大気汚染のように地球環境を汚すことと、二酸化炭素の排出とは根本的に別のものだ。もし、現代人の日常の経済活動の結果、地球規模で排出される二酸化炭素が、地球温暖化を招く悪玉ではなく、寒冷化を緩和する善玉だとすれば、各国が昨今、様々な政治的駆け引きのなかで取り組む温暖化防止策は「地球のためにならない」ことになる。米大統領トランプのパリ協定離脱発言の真意は不明だが、論議を最初からやり直すきっかけにすればいい。

「渋谷暴動・警官殺害容疑者逮捕」で仄見えるもの

Posted by Ikkey52 on 08.2017 事件   0 comments   0 trackback
 日本の数多い指名手配犯のなかで、最も古くから逃げていた中核派の活動家、大坂正明が、ついに広島県警に逮捕された。全国の盛り場や駅、公園、警察施設などあちこちに掲出されてきた、痩せて神経質そうな若者の白黒写真は、妙な言い方だが、風景の一部として市民の日常に溶け込んでいた。46年という月日はそれほど長いものだ。

 日本は2010年から、人を死亡させた罪であって法定刑の最高が死刑に当たるもの(=殺人罪)に限り、時効を廃した。ひとくちに時効と行っても、刑法上では検察の公訴権が消滅する「公訴時効」と、確定した刑の執行がストップする「刑の時効」のふたつがある。1971年に起きた渋谷暴動で警官殺害容疑に問われる大坂は、この間、ずっと逃亡を続けていたので、問題となるのは公訴時効のほうだ。当時、殺人罪の公訴時効は15年。2010年に法改正はあったが、法には不遡及の原則があるから、本来ならとっくに時効が成立している。

 ではなぜ、大坂はその後も追われ続けたのか。渋谷暴動の警官殺害事件では、大坂はじめ7人が共犯の容疑をかけられ、大坂以外の6人が1975年夏までに逮捕・起訴された。ところがその中のひとりで、一審の求刑(懲役15年)を不服として控訴していた奥深山幸男が、二審途中の1981年に精神疾患のため公判停止となり、以来そのままの状態となっている。

 つまり大坂の共犯のうち、奥深山の裁判だけがいまだに結審していない。刑事訴訟法第254条2項は、共犯者のなかにひとりでも起訴されて結審していない者がいれば、時効は停止すると規定しているので、大坂が足掛け46年逃げ続けても、彼の時効時計は奥深山の起訴時点で止まったきり、その後1秒たりも進まなかったことになる。したがって、2010年4月27日の改正法施行で殺人の公訴時効が撤廃された段階でも、大坂の時効は完成していなかったから、彼は事後犯となんら変わりない扱いを受ける理屈だ。

 それにしても大坂逮捕の報を聞いて、真っ先に勘繰りたくなったのは、反対論が勝るなかで国会審議真っ盛りの共謀罪法案との関連だ。あまりにもタイミングが良すぎないか。大坂は筋金入りの中核派革命軍メンバーで、逃亡支援も組織ぐるみで実施されていたとみられるからだ。ある情報によれば、捜査当局は大坂の生存は遅くとも数年前の段階で掴んでいたという。容疑者をできるだけ泳がせて、後ろ盾になっている組織まで一網打尽にするのは公安警察の典型的手法だが、では今度の身柄確保の決断は誰が下したか。政治絡みのジャッジの臭いがプンプンする。

 共謀罪法案に関して、ここで深入りするつもりはないが、新しい法律が、無差別テロから日本を守る必須条件とは考えたことがないし、現行法の下で国際条約に加盟できないとも思わない。政府の説明にいくら耳を傾けても説得力を感じていないのは事実だが、かといって、共謀罪法案の成立で、直ちに治安維持法下同様の息苦しい監視社会が現出するというのも、手垢がついた常套句にしか聞こえない。

 話を大坂に戻せば、「敵の手に落ちた革命軍兵士」の彼に一般的意味の反省などは期待できない。確信犯であるからだ。おそらく取調にも完全黙秘を通すだろうから、自白もまず得られまい。当時の捜査員も誰もいない。目撃者も探し出すのは難しいし、証言を得るとなればさらに厳しい。現場は群衆に踏み荒らされ、指紋も出ないし、DNA鑑定技術もそもそも鑑定試料がなければ生かせない。

 時効をなくすというのは、そういうことだ。被害者の応報感情の満足を別にすれば、半世紀近く前の事件を今裁いて、真実追求という裁判の目的を十全に遂げるのは、かなりハードルが高そうだ。共謀罪論議を意識していえば、右であれ左であれ、例え虚無的なテロリストであれ、その人の内心や思想それ自体は、けして裁けないし、裁かせてはいけない。

 1970年安保前後の日本の大衆、特に学生大衆が持っていた政治に対する関心の高さや心情の熱っぽさは、今ではちょっと想像もできないほどだった。だからこそ、当時すでに世界一の大都会だった東京の真ん中で「暴動」と呼ばれる事態が惹起したのだ。 権力と反権力が街頭でギシギシと音を立てて軋み合い、物理的衝突を繰り返し、それを遠巻きにする一見非政治的な人々にしても、必ずしも秩序維持派べったりではなかったのも確かなことだ。

 そうした空気を知らない世代が、権力による安手のプロパガンダに易々とからめとられ、大坂逮捕を共謀罪論議と単純に結びつけて受け止めるとすれば、非常に危険だ。せめて思想そのものが裁かれることのないよう公判廷の成り行きを注視したい。

劇作家、別役実…80歳のテレビ観・作劇観

Posted by Ikkey52 on 07.2017 テレビ   0 comments   0 trackback
 ニュースは一報を落とさないようにエネルギーを使うが、火傷を恐れてけして突っ込まない。ストレートなドキュメンタリーはかなり前から絶滅危惧種扱いとされ、北極、南極と隠語で呼ばれる早朝、深夜にしか編成されない。情報番組は街歩きとグルメが隠れたメインディッシュ。バラエティは出演者を多くして、視聴者の好き嫌いを薄めるのが常套手段だが、お姉マンはよくてもレズはだめ。ドラマの現代劇は、若い社会人の等身大像しか扱わず、金のある大河ドラマは、ひたすらキャスティングの意外性で魅せようとする…。

 そんな昨今のテレビ事情に不満を抱く向きも多かろう。劇作家の別役実が、実に鋭いテレビ批評をしているので、どうしても紹介したくなった。不条理劇に影響を受けて、早稲田小劇場を率いた別役は今年80歳だが、元気そうだ。『民間放送』17年6月3日号掲載の「放送を『評論』する視点とは④」から引く。

 「ことばについて。言葉は昔の説教節のように、まず100人に発信し、そこで活性化されて周辺へと段階的に伝わっていく構造が必要だ。戦後の日本の情報伝達はマスコミによっていきなり広く伝える形になった。だから新しいものができても消費物として扱われ、文化的な蓄積にならない」。

 「久米宏は『これはこの人が伝えるニュースです』と色を付けることで言葉に味わいを持ち込もうとした。ところがこれを繰り返すことで言葉は摩滅され、力を失った。何を伝えるかが顔でわかってしまう。コント55号の欽ちゃんもしゃぶりつくされた顔だ」。

 「独自性をどう保証するかが言葉にとって最大の問題だ。人々は常識的な見解に飽きるものだ。一方で独自性があれば多少間違っていても構わないというのがあって、庶民の側にも実行不可能で独自的すぎる極論に乗っかりたい衝動が常にある。トランプ現象はそれではないか」。

 「差別用語の問題がある。『めくら』という言葉を使ってはいけなくなっているが、感覚的にはそう言ったほうが、残酷な響きが含まれる可能性がある分だけ、人間性を映し出すことにもなる。そのほうが具体的な関係が肉感的に確かめられる」。

 「500人の劇場で『めくら』と言っても差別的とか残酷には聞こえない。ところが、不特定多数の1億人に放たれた場合、どんな残酷さを引き起こすか見当がつかないので使えない。それでも格闘しないと…。言葉というものは、格闘して生まれ、成立している。なのに無難にすませようとして、すべてをなくしてしまうと、肉声が持つデリカシーが消えてしまう」。

 「リアリティについて。かつてテレビ時代劇には、紋切り型のせりふの作り方があった。だから変えようもあった。時代劇のせりふが口語文になったいまは、どこまで変えていいかわからない」。

 「共感について。見る人の『共感』が重要だ。共感には『観念的な共感』と『皮膚感覚による共感』の二つがあり後者が重要だ。親しい人物を殺し、盗みもしたにもかかわらず、『憎めないなあ』というのがあるとしたら、それが皮膚体験した場合の評価になる」。

 「キャスティングについて。誰が舞台に立ち、誰が主役だ、というのは、演劇をわかりやすく楽しむために、長年文化が培ってきた方法だ。時代劇などの決まった演目で、これはこの人の役だというのは重要だ。歌舞伎役者のような、貫禄などというのも大事だ。いまのテレビの、主役を誰にしたいというのはちょっと違う」。

 「脚本について。最近井上ひさしやつかこうへいの脚本をあらためて読んで気づいたことがある。2人は最終的に楽しんでいるところが違う。井上ひさしは浅草の軽演劇の楽しさを知っているし、つかこうへいも学生運動の中に笑いを持ち込んだ。そんな笑いにくいものを笑うんだね。そうした新しい笑いを持ち込むことが演劇には重要な気がする。ほかの劇作家はだいたいまじめすぎる。テレビドラマについては、ストーリーや意表を突く部分を楽しむなど、趣向や仕掛けの工夫するしかないんじゃないか」。
  

プロフィール

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Author:Ikkey52
ジャーナリスト 札幌生まれ
父方は、奈良十津川郷系+仙台伊達藩亘理系。母方は東三河豊橋系+肥前鍋島藩系+加賀藩系

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